正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その七

 岩波文庫183、184ページ「いま道取(どうしゅ)する尽十方世界是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。その宗旨(そうし)は、尽十方世界は、広大にあらず微小(みしょう)にあらず、方円(ほうえん)にあらず、中正(ちゅうしょう)にあらず、活鱍々(かつぱつぱつ)にあらず露廻々(ろういうい)にあらず。さらに、生死去来(しょうじこらい)にあらざるゆゑに生死来なり。恁麼(いんも)のゆゑに、昔日曾此去(しゃくじつぞうしこ、昔日は曾(かつ)て此(ここ)より去り)にして、而今従此来(しきんじゅうしらい、而今は此より来る)なり。究辨(きゅうはん)するに、たれか片々(へんぺん)なりと見徹(けんてつ)するあらん、たれか兀々(ごとごつ)なりと撿挙(けんこ)するあらん。」

 「尽十方世界是一顆明珠」という言葉は玄沙師備禅師が初めて使われた。その言わんとするところは、尽十方世界(この世界、大宇宙)は、広大なものであるとか微小なものであるとか四角いとか丸いとか真ん中だとか正しいとかという観念的抽象的な言葉で言い表せるものではない。さらに魚が元気に泳ぎ回るように動いているとか、露わに遥かに続いているとかと表現できるものでもない。もっと言えば、今この瞬間に一生懸命日常生活を送っていることが「生死来去」そのものなのであるから「生死来去」という言葉で言い表せるものではない。このようなことであるから、過去と言っても今この瞬間から去って行ったものであり、現在と言っても今この瞬間に来たものである(今この瞬間に生きるのみ)。一生懸命に勉強するならば、「尽十方世界」は色々なものが個別に存在しているのだと見ることはできないし、不動の姿でどっしりと存在していると考えることもできない。

 ここのところは「尽十方世界是一顆明珠」というけれども、この「尽十方世界」というのは観念的・抽象的なものではなく、今この瞬間の日常生活を一生懸命生きている、必死に瞬間瞬間行動していることそのものが「尽十方世界」ということだと考えている。だから「尽十方世界」は観念的・抽象的な言葉で表現することはできない。

 つまり一生懸命にこの瞬間を生きること・行動することそのものが「尽十方世界」大宇宙そのものなのだ。言葉を弄することに意味はない。

 自民党の総裁選での立候補者とか、野党の政策協定での党首とかの発言を聞いていると、どうしても観念的・抽象的に聞こえてしまう。どうも現実の認識、事実認識が矮小で観念的なんじゃないかと思えてしまう。言っていることは表面的にはもっともだけれど現実感が無い。頭の中の考えに憑りつかれて、現実が歪んで見えてしまっているのじゃなかろうかと心配になる。この世界をどうしたいのか、現実を踏まえてどういう段取りでどのようにしていくのかさっぱりわからない。目の前の選挙で頭が一杯じゃ、甚だ心許ない。そんな程度の政治家しかいないんじゃ、とても不安だ。

 政治家の皆さん、坐禅して身心脱落して、本来の面目に立ち返ってくれませんかねえ。

 無理だろうなあ。私は坐禅して瞬間瞬間を一生懸命生きていきます。