正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その八

 「「尽十方(じんじっぽう)」といふは、逐物為己(ちくもついこ)、逐己為物(ちくこいもつ)(物を逐(お)ひて己(おのれ)と為し、己を逐ひて物と為す)の未休(みきゅう)なり。情生智隔(じょうしょうちきゃく、情生ずれば智隔たる)を隔(きゃく)と道取(どうしゅ)する、これ回頭換面(ういとうかんめん)なり、展事投機(てんじとうき)なり。逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先(きせん)の道理(どうり)なるゆゑに機要(きよう)の管得(かんて)にあまれることあり。」

 「尽十方」この大宇宙というものは、物と自分はともに大宇宙の一部であって区分されるものではないから、物を追いかけても自己であるし、自己を追いかけても物であるのであり、そのことが永遠に続いているのである。感情が生まれると真実から隔たってしまう、そのことを「隔」と言い表しているが、生きるということは瞬間瞬間、頭と顔が入れ替わるようにその場その場で対応するのであるし、その瞬間その瞬間行動していくものなのである。自分と物は同じものであるということが永遠の大宇宙というものなのである。このことはすべての前提であるからここが肝要なところだと言い切れるようなものではない。

 生きるということはこの瞬間瞬間どのように行動するかということである。人間には感情がある。感情によって真実から遠ざかってしまうことはある。しかし、そうだとしてもその瞬間瞬間に時と場合に応じて一生懸命に行動して行くしかない。

 我々は本来大宇宙そのものなのだ。その中で瞬間瞬間万物は変化していく。それに応じて瞬間瞬間行動して行かなければならない。生きていかなければならない。そのためには坐禅して大宇宙の真理を体得し大宇宙の真理と一体となって行動しなければならない。

 コロナの感染者数は減少傾向にあるように見える。この先どうなるかわからないが、ワクチン接種が進めば当然の結果のように思える。

 コロナが大変だと騒いでいる向きもあるようだ。確かにコロナのリスクは厳然としてあるだろう。しかし騒いでいる内容は「情生智隔」ではなかろうかと感じてしまう。感情でものを言っているだけで、現在の客観的データや社会全体のリスク量の変化について冷静な言動が見られないように思える。政府・与党の対応が万全だったとは到底思えないが、一方でではどうすればよいのかという意見も感情論、机上の空論、観念論にしか見えないのが今の政治の情けないところだろう。

 感情を露わにして強い口調で主張するというのは、私には幼さにしか見えない。けれどこういう幼さ、幼稚なレベルの方が喜ぶ人が多いのだろうか。

 瞬間瞬間大宇宙の状況を体得して静かに落ち着いて堂々と対応できない。これではこの先思いやられる。

 政治家がどうであれ、一人一人がきちんと行動できるようになるしか方法はない。

 そのためには坐禅が必要だ。