正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十七

 岩波文庫187ページ「正当恁麼時(しょうとういんもじ)、あるいは虚空(こくう)にかかり、衣裏(えり)にかかる、あるいは頷下(がんか)にをさめ、髻中(けちゅう)にをさむる、みな尽十方世界一顆明珠なり。ころものうらにかかるを様子(ようす)とせり、おもてにかけんと道取することなかれ。髻中頷下(けちゅがんか)にかかるを様子とせり、髻表頷表(けひょうがんぴょう)に弄(ろう)せんと擬(ぎ)することなかれ。醉酒(すいしゅ)の時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず醉酒するなり。」

 まさにそのような時、明るく輝く珠は空間にあり、着物の裏にあり、あるいは龍の顎の下に収まっており、転輪聖王の髪の毛(もとどり)の中に納まっているなど色々な場合があるがそのような珠すべてが「大宇宙全体が一つの明るく輝く一つの珠」そのものなのである。この珠は着物の裏にあるものなのであってわざわざ表に出そうとするというようなことを言う必要はない。髪の毛の中顎の下にあるものなのであって、表に持ち出そうと無理に企む必要はない。酒に酔った時に珠を与える親友がいる。親友は必ず珠(のような貴重なもの)を与えるというのが当然だろう。珠を着物の裏に縫い付ける時は酒に酔った時のように自然にふと行うものなのである。

 着物の裏の珠というのは法華経にある話だそうだ。裕福な友達と貧乏な友達が出会って酒を飲んだ。貧乏な方が寝込んでしまったので、金持ちの友達が着物の裏に珠(宝石?)を縫い込んで立ち去った。何年かして出会ったとき金持ちが貧乏に「あの珠はどうした」と聞くと貧乏な方は珠が着物の裏に縫い付けてあることを知らずに過ごしていた、というような話らしい。

 大宇宙の真理を体得する力、仏としての力は誰にも備わっているが、そのことに気付かずにいるということを示しているらしい。

 何回も書いているが、人間は大宇宙そのもの、大宇宙の一部を皮で包んだものなのだ。大宇宙の真理は本来人間に備わっているものなのだ。しかし、利得・欲望・地位・妄想などに狂わされ本来の姿を見失ってしまっている。

 だから坐禅しなければならない。坐禅して本来の姿に立ち戻らなければならない。

 本来の姿は超人的なものではなく、ごくごく普通の姿。だから殊更他人に見せるようなものではない。普通に日常生活を送ることが大宇宙の真理なのだ。大宇宙の真理に即して行動することは、ごく普通の平凡なこと。酒に酔ってふと行うことのように。

 今は、どうでもいいつまらん些細なことで大騒ぎばかりしているように見える。自民党の新総裁の背後に3Aがいるとかなんとか。現実に権力を獲得し行使しようとすれば、色々な立場の人間に配慮するのは当たり前じゃないの?その上で自らの信じることが出来るかは新総裁の力量ということだろう。

 野党だってトップはずっと変わってないんじゃないの。権力にしがみついているのか、他の党員が無能なのか知らないけど。野党共闘小沢一郎に頼もうとするなんて結局権力者頼みであること自民党と変わらないんじゃないのかな?

 この国がどうなるのかは、国民一人一人にかかっている。国民一人一人がきちんとするならば、政治家もきちんとしたものになるだろう。

 だから、坐禅しましょう。それしか方法はない。