正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その五

 岩波文庫193、194ページ「うらむべし、数百軸(すはくじく)の釈主、数十年(すじゅうねん)の講者(こうじゃ)、わづかに弊婆の一問をうるに、たちまちに負処に墮して、祇対におよばざること。正師をみると正師に師承せると、正法をきけると、いまだ正法をきかず正法をみざると、はるかにこのなるによりて、かくのごとし。

 徳山このときはじめていはく、画にかけるもちひ、うゑをやむるにあたはずと。いまは龍潭に嗣法すと称ず。」

 残念なことに、数百巻の経典の講釈をし、数十年その講釈をしてきた者なのに、ちょっと老いぼれ婆さんの質問を受けて、「何でも聞け」と言っていたのに質問に負けてしまって答えることができなかった。正しい師に出会い、その師から正しく法を伝えられ、正しい方を聞くのと未だに正しい法を聞かず正しい師に出会っていないのでは、遥かに異なっていることからこのようなことになるのである。徳山禅師はこの時はじめて言ったことには「絵に描いた餅では飢えを満たすことはできない」。今は龍潭祟信禅師の法を継いだと自称している。

 正しい法とは、坐禅して大宇宙の真理・真実と一体となって瞬間瞬間の日常生活を一生懸命に生きることだ。

 経典を読んで講釈垂れることはできても、法を体得することはできない。大宇宙の真理と一体となることはできない。

 本をいくら読んでも坐禅しない限り、仏教は絶対に理解できない。知識の量の問題ではない。身心の状態の問題、心身をいかに整えるか、大宇宙の真理と一体となれるかが問題なのだ。

 今の世の中、知識の偏重、頭の中で考えた理屈の偏重がひどすぎる。知識と頭の中の考えに囚われ惑わされて現実が見えなくなり、どんどんおかしな方に行ってしまう。

 衆議院選挙の野党共闘なんていい例じゃなかろうか。

 国家観が異なる政党が票数を増やすために立候補者を調整するなんて、本当に小手先のやり方だ。結局、自らの政党の主張の支持者が少ないことを自ら認めているということではないか。何故自らの主張を広く国民に支持してもらうことを第一にしないのか。近視眼的に目先の票が欲しいなんて、さもしさが溢れ出ている。

 頭の中の理屈しかない、それも程度が低いことが露わになった。

 もう少し地に足が着いた、事実をちゃんと受け止め、大局観を持った堂々とした行動ができないものだろうか。

 坐禅するしかない。