正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その六

 岩波文庫194ページ「つらつらこの婆子(ばす)と徳山と相見(しょうけん)する因縁をおもへば、徳山のむかしあきらめざることは、いまきこゆるところなり。龍潭をみしよりのちも、なほ婆子を怕却(はきゃ)しつべし。なほこれ参学の晩進なり、超証の古仏にあらず。」

 よくよくこの婆さんと徳山禅師が出会った話を考えてみると、徳山禅師が過去のこの時点で大宇宙の真理がわかっていないということが、今も知られているところである。龍潭禅師の下に参じた後もやはりこの婆さんをおそれていただろう。徳山禅師は修行者として遅れているし、実際の経験を踏まえてこれを乗り越えて大宇宙の真理に到達している古仏ではない。

 徳山禅師は老婆の問いに答えられなかった。経典ばかり読んで、頭の中で仏教をいじくりまわしていただけだからだ。

 坐禅して大宇宙の真理・真実と一体となって日常生活の瞬間瞬間を一生懸命生きなければいけないのに、頭の中の考えに囚われてしまっていてはどうにもならない。

 坐禅して大宇宙の真理・真実と一体となっているならば、瞬間的に正しいことができる。

 今の世の中、知識や理屈ばかりだから、本質から外れたことが往々にして起こる。

 無免許運転して当て逃げ事故を起こしても議員を辞めない都議なんて典型的だろう。理屈としては選挙で当選しており、辞めなければいけないというルールはない。だから辞めない。

 こんなものは理屈でどうこう言うこと自体が馬鹿馬鹿しいことだ。ただ単に「人間としておかしいでしょ」というだけのことだ。

 ただこの都議は極端なところはあるとは思うが、今世の中全体が知識・理屈偏重で、「そもそも人間が生きるとはどういうことか」「世界とはどういうものなのか」という根源的なところ、つまり大宇宙の真理からかけ離れた状態になっていると感じる。

 ここのところがきちんとしないまま、ただ知識や理屈ばかり振り回しているとひどいことになる。それは間違いない。

 坐禅して本来の面目を取り戻しましょう。知識や理屈の呪縛を解放しましょう。