正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その七

 岩波文庫194ページ「婆子そのとき徳山を杜口(とく)せしむとも、実にその人なること、いまださだめがたし。そのゆゑは、「心不可得」のことばをききては、「心、うべからず、心、あるべからず」とのみおもひて、かくのごとくとふ。徳山もし丈夫(じょうふ)なりせば、婆子を勘破(かんほ)するちからあらまし。すでに勘破せましかば、婆子まことにその人なる道理もあらはるべし。徳山いまだ徳山ならざれば、婆子その人なることもいまだあらはれず。」

 婆さんがその時徳山禅師の口をつむらせたとしても、実際のところ大宇宙の真理と一体となった真の人間であるかどうかは判断しがたい。何故かというと婆さんは「心不可得」という言葉を聞いて「心というものは手に入れることはできない、心というものはないはずだ」とだけ思っているから、あのように質問したのだ。徳山禅師がもし大宇宙の真理と一体となっていて自在に行動できるような力量のある人間であれば、婆さんの理解の程度を見破る力があっただろう。もし見破ったとしたら婆さんが本当のところどの程度の力量の人間であるかということを仏道に従って示すという状況も現れただろう。徳山禅師自体が、大宇宙の真理と一体となった真の徳山禅師とはなっていないので、婆さんの真の力量を備えているかどうかわからないのである。

 道元禅師は、この婆さんと徳山禅師のエピソードを単に徳山禅師が婆さんにやり込められたのだというような単純な話で終わらせてはいない。

 婆さんの質問の内容では本当に婆さんがどの程度仏教を身に着けているかわからないし、婆さんの質問に対応できない徳山禅師の力量も全く不足していると書いておられる。力量不足の二人の人間のやりとりだとされている。

 良くわかっていない人間、ごく狭い視野で自分の思惑に囚われている人間、そういう人間が声高に主張しているというのは、今の世の中に溢れかえっている。

 この間の選挙結果も、様々な人間が様々に言っているけれど、狭量な視野、頭の中の考え・思惑に囚われている姿が透けて見えるようなものばかりという気がする。

 地球温暖化対策は重要なんだろう。けれど世界各国それぞれ切実な事情があるだろう。今すぐ石炭火力発電をやめろとか化石燃料は怪しからんと言ったってすぐには応じられない国があるのは当然だ。すでに脱炭素の取組を進めている国と違って当然だ。脱炭素の取組が進んでいる国だって過去化石燃料で国が発展したから今は「脱炭素」と言えるんじゃないのかな。そうなると国益を巡った主導権争いというような姿も感じられてくる。

 地球温暖化のような話になると感情的な極論、大義名分を振りかざした攻撃が現れてくるのは如何なものかと思う。これでは対立と分断を生むだけではないかな。

 我々が生きているこの大宇宙の真理と一体となって行動する。それしかない。つまらぬちっぽけな脳味噌に振り回されてはいけない。

 そのためには坐禅するしかない。