正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十

 岩波文庫196ページ「こゝろみに徳山にかはりていふべし、婆子まさしく恁麼問著(いんももんじゃ)せんに、徳山すなはち婆子にむかひていふべし、「恁麼則你莫与吾売餅(恁麼ならば則ち你(なんじ)吾が与(ため)に餅を売ること莫(なか)れ)」。

 もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利(りんり)の参学ならん。」

 ためしに徳山禅師に代わって言ってみせよう、婆さんがまさにそのように質問してきたならば、徳山禅師は婆さんに向かって言うがよい「そのようなことならばお前さんは私に餅を売ることはしないようにしなさい」。

 もし徳山禅師がこのように言ったとしたら、徳山禅師は鋭く明晰な仏道を学ぶ者であろう。

 婆さんの「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得ならば、和尚さんは餅をどの心につけようというのか」という質問への答えを道元禅師が示しておられる。

 点心はおやつということのようだが、心に点ける(つける)と読める。だから婆さんは餅をどの心につけるのかと質問した訳だ。

 この後道元禅師が更に解説をされるが、要は心と餅が別々にあってどちらかをどちらかにつけるというような考えは仏教の考えではない。だからそのような質問を質問をする婆さんから餅を買うことなどしないということになる。仏教を理解できていない婆さんにぴしゃりと言ってやるが良いということなのだと思う。

 心と餅の関係はこの後に道元禅師が解説をされるので次回以降に書くことにする。

 私はすべては大宇宙そのものであり、一つ一つの事物を個々に捉えてはいけないと思っている。

 立憲民主党の党首選のネット記事など眺めていると(記事が正確かどうかははなはだ疑問ではあるが)、この人たちは本当に今の現実が見えているんだろうかと思えてならない。与党も本当に現実が見えているかどうかよくわからないけれど、政権を運営する以上現実と対峙しなきゃならないので、少しは見えているんじゃないかという淡い期待は持っている。

 いずれにしても坐禅しない限り大宇宙の真理・真実と一体となることはできない。

 坐禅しましょう。