正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十一

 岩波文庫196ページ「婆子もし徳山とはん、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとする」。かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかつていふべし、「和尚はたゞもちひの心(しん)を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」。」

 もし婆さんに徳山禅師が「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いま餅をどのこころにつけようというのか」と質問したら、婆さんは徳山禅師に次のように即答すればよい。「和尚さんはただ餅を心につけることができないということだけ知っていて、心を餅につけることを知らないし、心を心につけることを知らないね。」

 婆さんが大宇宙の真理を体得しているならばこのように答えられはずだが、そのようにはしていない、だから婆さんが本当に大宇宙の真理とは何かをわかっているのかは疑問だと道元禅師は書いておられる。

 ここのところは、心と餅とは別別にとらえるものではないということなのだと思う。さらに心を心というものだと頭の中で考えることも間違いだということだと思っている。「心の心を点ずる」とは心は大宇宙そのものであり、そういう見方からすれば心を心につけることができる=すべて大宇宙そのものだ、ということだと思う。餅も心もすべて大宇宙の真実・真理そのものなのだ。

 心があるから餅というものが認識されるということではない。心も餅も大宇宙そのものであり一体として存在するのだ。

 今の世の中、二元論というか、単純な対立軸で語るのが好きなようだ。大事なのは、人間が存在するとは何か、宇宙とは何か、その上でどう生きるべきかをとらえることであって、表層的なちっぽけな脳味噌で考えるようなことに振り回されてはいけない。

 野党共闘なんてほんとに情けない。主義主張が違うから別な政党なんだろう。それが共闘するって自分で言ってて情けなく無いのだろうか。自分の党の主張では多数の支持が得られないってことじゃないか。

 与党に安定過半数を取られちゃってるのに、共闘は成果があったなんて、どうすりゃそんな風に言えるんだろうか?

 ほんとに無邪気なお子ちゃまの時代だ。

 心と餅を別々にしかみられない。根源的に餅とは?心とは?と考えられない人間ばかりじゃこの先思いやられる。

 坐禅しましょう。