正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十二

 岩波文庫196、197ページ「恁麼(いんも)いはんに、徳山さだめて擬議すべし。当恁麼時(とういんもじ)、もちひ三枚を拈じて徳山に度与(つうよ)すべし。徳山とらんと擬せんとき、婆子いふべし、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。

 もし又徳山展手擬取せずは、一餅(いっぴん)を拈じて徳山をうちていふべし、「無魂屍子、你莫茫然(無魂(むこん)の屍子(しし)、你(なんじ)茫然たること莫(なか)れ)」。」

 (婆さんが徳山禅師に「和尚はたゞもちひの心(しん)を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」)婆さんがこのように言えばきっと徳山禅師は何か言おうとするだろう。まさにこのような時、餅を三枚手に取って徳山禅師に与えたらよい。徳山禅師が受け取ろうとしたら婆さんは言うが良い「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と。

 もし徳山禅師が手を伸ばして餅を受け取ろうとしないのならば、餅を一枚手に取って徳山禅師をひっぱたいて言うが良い「この腑抜け野郎、ぼうっとしてるんじゃない」と。

 餅も心も大宇宙そのものであり、これを区分して考えるのは間違い。心があって餅というものを認識するということじゃあない。現実の行動の中で餅と接触するところに心がある。

 頭の中で餅と「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉をあれこれいじくり回すことに意味はない。腹が減っているなら餅をもらって食えばいいだけのことだ。餅を食っている時に「心というものを捕まえることができるか」なんてことを考えたって意味はない。ひたすら食えばよろしい。心がどうのこうの言ってる暇はない。つまり「心不可得」なのだ。

 腹が減っているなら餅をもらって食えばいいのにそれをしないのなら、腑抜け野郎と罵られても仕方がない。

 坐禅して身心がバランスして大宇宙の真理・真実と一体となっている時、自然とごく当たり前のことが普通にできるようになる。

 日常生活の中で行動するとき、物との接触が起こる。その瞬間に心が発現する。心というものがころっとした形で存在するはずがない。

 この感覚は坐禅しないとわからない。

 今の世の中、頭でっかちで頭の中の考えに引きずり回されてしまって現実が見えなくなっている人間がやたらと多いと思う。「だからどうする」という具体的な現実的な方法の提示が無くてただただ言葉ばかりだ。

 皆さん、坐禅しましょう。