正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十三
岩波文庫197ページ「かくのごとくいはんに、徳山いふことあらばよし、いふことなからんには、婆子さらに徳山のためにいふべし。たゞ払袖(ほっしゅう)してさる、そでのなかに蜂(はち)ありともおぼえず。徳山も、「われはいふことあたはず、老婆わがためにいふべし」ともいはず。
しかあれば、いふべきをいはざるのみならず、とふべきをもとはず。あはれむべし、婆子・徳山、過去心・未来心、問著・道著(もんじゃ・どうじゃ)、未来心不可得なるのみなり。」
(婆さんが)こう言ったことに対して、徳山禅師が何か言うことがあれば良い、言うことができなかったら婆さんは徳山禅師のために言ってやるがよろしい。それなのにただ袖を払って去ってしまったというのではだめだ、袖の中に蜂がいた訳でもあるまいに。徳山禅師も「自分は言うことができない。婆さん私のために何か言ってくれ」とも言っていない。
そういうことであるから、言ううべきことを言わないだけではなく、質問すべきことも質問していない。あわれなことだ、婆さんも徳山禅師も過去心も未来心も問うことも言うことも、未だ来ていない状態で自分のものになっていないのである。
よく禅問答という。訳のわからないことを言ってなんだかすごいことのように見せかけていることをそう言うと思っている。
しかし、上に書いてあるように道元禅師が書いておられることは、ごく普通のこと、当然のことだ。
知っているならわかっているなら教えてあげればいい。わからないなら聞けばいい。そういうごく普通の当然のことをしないのはだめだとおっしゃっている。
仏教は日常生活を普通に生きていけるようにするものだと思っている。普通というのは大宇宙の真理に従っていくということだ。
それなのに仏教をやたらと難解に見せかけたり、神秘的な超常的なことに見せたりするのは、はっきり言って詐欺の手法だ。金儲けの道具にするにはその方が都合がいい。あるいは、説いている人間が理解していないということにすぎない。
ただ「普通に生きる」というのは、坐禅しない限り非常に難しい。
政治の「裏金」を巡って隠し撮り(録音)したり言い争ったりしている。結局権力闘争に過ぎないとは思うけど、そもそも選挙にどのくらい何のために金がかかるのかというようなことを堂々と話せば済むことじゃないのかな?ただ胡散臭いだけのことになっている。
日大の前理事長にしても、犯罪じゃないと思っているんだろうけど、法に抵触するかしないかという前に、現金で何千万円、何億円も手に入るって異常だと思わないのが、どうかしちゃっていると思う。そんな金があるなら学生の教育のために使うのが、教育機関の経営者がするべき唯一のことだろう。
坐禅して普通になりましょう。