正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十四

 岩波文庫197ページ「おほよそ徳山それよりのちも、させる発明ありともみえず、たゞあらあらしき造次(ぞうじ)のみなり。ひさしく龍潭にとぶらひせば頭角触折(とうかくしょくせつ)することもあらまし、頷珠(がんしゅ)を正伝する時節にもあはまし。わづかに吹滅紙燭(すいめつしそく)をみる、伝燈に不足なり。」

 おおよそ徳山禅師はこのエピソードの後もこれといって仏道を明らかにしたとも見えない。ただ乱暴な振舞いだけが伝わっている。長く龍潭禅師に学んでいれば、龍潭禅師の仏道の真髄(龍の角)に触れて仏道を体得できであろうし、龍の顎の下にあるという珠(龍潭禅師の仏道の真髄)を受け継ぐときにも出会っただろう。わずかに「吹滅紙燭」のエピソードだけが伝わっているが、これでは仏道を伝える(伝燈)には不足である。

 「臨済の喝、徳山の棒」といって、徳山禅師は弟子を棒で殴ったらしい。弟子を厳しく指導したと取る人もいるかもしれないが、道元禅師は評価しておられない。

 道元禅師は正法眼蔵の中で非常に厳しく先人たちを批評される。ここの箇所は徳山禅師は仏教を真に理解していないとされている。

 仏教というのは普通の人が普通に日常生活を送れるようにするものと思っている。普通=大宇宙の真理と一体となって行動する、ということだ。

 体罰なんていうものは極めて不自然なものだ。もちろん例外中の例外ということはあるかもしれないが、体罰がなければ伝わらないなんてものは偽物だ。

 普通のことが普通にできるというのは、しかし非常に難しい。

 石原伸晃氏が内閣官房参与を辞任したという。コロナの雇用調整助成金を代表をしていた自民党支部が受け取っていたからだそうだ。政治家がこんなもの受け取ったら騒ぎになるに決まってる。コロナの助成金貰って政治活動するって変に決まってる。こういうことがわからないんじゃ困る。もっとも本人が知らない間に事務方がやってたのかもしれないけどね。

 しかしそうだとしても、こういうことさせないように治めるというのが政治家の力量じゃないんだろうか。普通にできるのが力量というものだろう。

 そのためには、坐禅するしかない。