正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十五

 岩波文庫198ページ「しかあれば、参学の雲水、かならず勤学(きんがく)なるべし、容易にせしは不是(ふし)なり、勤学なりしは仏祖なり。おほよそ心不可得とは、画餅(わひん)一枚を買弄(まいろう)して、一口に咬著嚼尽(こうじゃしゃくじん)するをいふ。」

 そういうことであるから、仏道を学ぼうという者たちは、必ず真実・真理を得るためにずっと一生懸命に学ばなければいけない。これぐらいで十分だなどと安易にしてはいけない。真実・真理を得るためにずっと一生懸命に学ぶ者は仏祖である。心不可得とはどういうことかを大まかに言えば、絵に描いた餅を買って一口にむしゃむしゃ食ってしまうことを言うのだ。

 坐禅をして悟るというようなことを言う。坐禅のゴールが悟りみたいに言うことがある。

 しかしそれは間違いだ。人間が生きるのにゴールなんてない。悟りなんてものがころっとある訳がない。

 仏向上という言葉がある。たとえ大宇宙の真理と一体となりえたとしても(仏といわれるような状態になったとしても)常にさらに向上しようとし続けなければならないということだ。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となったとしてもその状態を維持するためには毎日坐禅をし続けなければならない。坐禅しなければその状態は保てないのだ。このことが「勤学」だ。

 「容易にせし」というのは徳山が「俺は金剛経を究めた。金剛王だ」などと浅はかに考えたり、大したこともしていないことを言っていると思う。

 とにかく仏向上のためひたすら毎日坐禅し、経典を研究する、毎日の生活を一生懸命に行う、これが重要だ。というかこれしかない。

 心不可得とは何かなどと頭の中で考えをいじくりまわしても何にもならない。そんな暇があるなら、絵に描いた餅を一口に食ってしまえ、つまり日常生活を一生懸命に生きろ、ということ。

 生きるというのは瞬間瞬間を必死に行動するということだ。

 世界をみてもウクライナを巡ってロシアと欧米は緊張状態にあるし、中国と台湾だって同じようなものだ。

 日本という国が安泰に過ごせるかどうかは、瞬間瞬間の行動にかかっている。もちろん政府がきちんとしなければならないが、人間一人一人が日常生活を普通に一生懸命生きていることが大前提だ。

 野党もしっかりして欲しい。立憲民主党は「批判ばかり」と言われることに対し「自民党が批判されるようなことばかりするからだ」とか「マスコミが一部を切り取って報道するから批判ばかりというイメージができた」とか他人のせいにしているけれど、実に情けない。

 党としての言動が評価されていないということでしかないだろう。批判ばかりだとしても、その批判が国民に「なるほど、もっともだ」と支持されるようなものであれば問題ないだろう。支持されていないことをよくよく考えなきゃ駄目でしょう。政党支持率なんて10%程度しかないんだから。

 現実が見えなきゃどうしようもない。

 坐禅しましょう。