正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十六

 心不可得の巻は前回で終わり。

 心不可得というのは「心というものは捕まえることができない」というようなことだろう。

 では「心」って何だろう?ということになる。

 自分の外に「もの」があって、自分の中に「心」があるということではないと思っている。

 今この瞬間に一生懸命行動している状態、自分が現実の世界の中と取っ組み合っている状態、それが「心」というものなんだと思っている。

 「心」というのは悠長に頭の中で考えるものじゃない。「心」というものだけが存在するということはない。そう考えている。

 仏教は人間が現実の世界で生きていく方法を教えるものだと思っている。そしてそれは坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となることによって可能となる。

 脳味噌はある意味で優秀だから、いろんなことを思いつく。考え出す。そして信じる。それは必要なことだけれど、その脳味噌の働きが正しいかどうか、それが問題だ。

 坐禅することによって、脳味噌は誤った動きはしない。誤った考えの呪縛から解放される。

 石原慎太郎さんが死んで、社民党の副党首やら何人かが彼を非難するコメントを出した。

 死んだ人間を非難するのは如何なものかという意見もある。心情的には私もそう感じる。

 ただそれよりも強く思うことは、非難している人たちの狭量さ、不寛容さだ。自分の脳味噌に囚われ、憑りつかれていて、それに反する考えの人間を徹底的に攻撃する。死者であろうと非難し続ける。正直、これは偏執的で気味が悪い。恐ろしい。

 こういう人は、自分と同じ考えの人ばかりの社会、単一の思想の社会を理想として目指そうとしているとしか思えない。それ以外を排撃する。怖い怖い。

 私はそれは異常な世界だと思う。

 坐禅して本来の面目に戻りましょう。大宇宙の真実・真理と一体になりましょう。