正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその三

 三十ページほどの「坐禅のやり方」を通読する余裕もなく、ただ坐り方だけ読んで坐禅をやろうとした。
 まず知らなかったこと。坐禅は平らな座布団の上でやるのではないこと。知らなかった。坐蒲とかいうものにお尻を載せお尻を持ち上げ、両膝とお尻の三点で支えるのだそうだ。
 当然、坐蒲など無い。でも座布団を折り畳んでも良いと書いてあったので、座布団を二枚重ねてみたり、折り畳んでみたりして、まあ良さげな高さにしてみた。 
 次に、足の組み方。結跏趺坐(けっかふざ)の足の組み方がイラストで示されていたが、足が短くて太いせいか、関節が硬いせいか、どうしても組めない。実は、今も組めない。困ったが半跏趺坐(はんかふざ)という片足だけ太股の上に載せる形でもよいということなので、これにした。左足を右太股に載せた。そして手をイラストのとおり組むことだけ、ちょっとやってみた。これで一応形はよさそうだ。その本の最後の方に朝15分くらい、夜5分くらいからと書いてあった。当時、夜はクタクタで、また、酒もかなり飲んでいたので、夜はできないとあきらめ、とにかく、まず朝坐禅してみることにした。

 朝取り敢えず15分と思って、坐禅の姿勢をとった。
 途端に、と言っていいくらいすぐに、浮かび上がったのは、私を敵対視し、攻撃し、あるいは無視する人々の顔であり、その声であり、言葉だった。
 怒り、憤怒、が私を突き上げ、体が震えた。叫びそうになった。
 坐禅して怒りに震え叫ぶ。こんなことでは話にならないんじゃないか?不安になった。坐禅ってこんなものではないだろう?
 急いで「坐禅のやり方」をめくった。すると「妄想を気にするな」「妄想に気が付いたら、ただちにそれをやめればよい」「念起こらば、即ち覚せよ(道元禅師「普勧坐禅儀」)」と書いてあった。
 私のは妄想という言葉より、激情と言った方がよいと思ったが、本に従おうと思い、激情を忘れて坐禅に立ち返ろうとした。一瞬、「坐禅するのだ」と感情を離れるが、あっという間に、また怒りに震え、叫びそうになる。「いかん」と気がつき、やめようとする。でも、一瞬で怒りに震え、浮かび上がった人間と議論まで始めてしまう。
 この繰り返しで15分はあっという間に過ぎ、「こんなことでよいのかな」という思いでその日の坐禅は終わった。