2021-02-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十一

岩波文庫142ページから145ページまでは、大証国師(南陽慧忠禅師)とある僧(南方から来たという)の問答が記載されている。 原文は漢文であり、かなりのボリュームがあるので私なりに要約して書いてみる。 なお、南陽慧忠禅師は六祖大鑑慧能禅師の法をついだ方…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十

岩波文庫142ページ「これよりのちは、さ生死に流転(るてん)せず、不生不滅の性海(しょうかい)に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさゞるほど、三界六道は競起(きんき)するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり」 (悟って常住、永遠の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その九

岩波文庫142ページ「また真我と称じ、覚元(かくげん)といひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ」 また真の自分の本体・本質と称するし、悟りの根元とも言い、本性・本体とも言う。 このよう…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その八

岩波文庫142ページ「本性(ほんじょう)より縁起せるゆゑには実法なり。しかありとも、霊知のごとく常住ならず、存没(ぞんもつ)するがゆゑに。明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ」 存在するものの本質から発生したものならば、真実の法で…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その七

岩波文庫141、142ページ「自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫(りゃくごう)に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし」 霊知は自他ともに等しく持…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その六

岩波文庫141ページ「たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎(にんしゃ)の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々としてある、これを覚者智者の性(しょう)といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称ず」 たと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その五

岩波文庫141ページ「そのなかに、しばらく妄法(もうぼう)の空花(くうげ)ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡(もう)じ、境も滅しぬれば、霊知本性(ほんじょう)ひとり了々として鎮常なり」 (霊知があまねく行き渡っている)そのなかに、時に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その四

岩波文庫141ページ「万物にさへられず、緒境にかゝはれず。物は去来し境(きょう)は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此(この)霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊(ぼんしょうがんれい)の隔異(きゃくい)なし」 肉体に宿っているものは、何物にも邪魔を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三

岩波文庫141ページ「外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼(せんに)となづく。かれが見処のいはくは、大道(だいどう)はわれらがいまの身にあり、 そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖(りょうなん)を自知…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二

岩波文庫140ページ「いはゆる即心の話(わ)をき々て、癡人(ちにん)おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心(みほつぼだいしん)なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師(しょうし)にあはざるによりてなり」 「即心(是仏)」ときいて、仏道・仏教…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十六

岩波文庫139ページ「非想非々想の骨髄あり、これを抗(こう)して学道するのみなり」 ものを考えない、ものを考えないということはないという仏道の真髄(坐禅の境地)があり、これを使って仏道・仏教をまなんでいくのみである。 非想非々想というのは、仏教…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その一

岩波文庫140ページ「仏々祖々、いまだまぬかれず保任(ほうにん)しきたれるは即心是仏(そくしんぜぶつ)のみなり。しかあるを、西天(さいてん)には即心是仏なし、震旦(しんだん)にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯(しゅうさくじゅさ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十五

岩波文庫139ページ「平坦々地、それ壁立千仞(へきりゅうせんじん)なり。壁立千仞処、それ平坦々地なり。このゆゑに南州北州の面目あり、これを撿して学道す」 日常生活、瞬間瞬間の行動しているところは平坦に見えるが、足を滑らせれは一瞬にして命を失う千…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十四

岩波文庫139ページ「飜身回脳するに、如一銭大(にょいっせんだい)なり、似微塵裏(じみじんり)なり」 大宇宙と一体である身を翻し、頭をフルに使って瞬間瞬間行動していくということは、尊いことではあるけれども、しかしこの現実の中で生きているという点…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十三

岩波文庫139ページ「生死を頭尾(とうび)として、尽十方界真実人体はよく飜身回脳(ほんしんかいのう)するなり」 瞬間瞬間繰り返す生死というものは全身に行き渡っているものであり、この大宇宙全体がイコールこの真実の人体であり、我々が生きているという…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十二

岩波文庫139ページ「去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来(ひこひらい)す、尽十方界を三足五足として進歩退歩するなり」 生死は瞬間瞬間去っては来る去っては来るのだが、その有り様は大宇宙全体そのものを二つの翼三つの翼として飛び回るのであるし、大…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十一

岩波文庫139ページ「去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり」 瞬間瞬間が去っては来る、このことを学ぶとき、瞬間瞬間は消え去るそれが生死であり、瞬間瞬間がやってくるそれが生死であり、生きるというのは瞬間瞬間の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十

岩波文庫138ページ「この道著(どうじゃ)しづかに功夫点撿すべし。圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず」 この圜悟禅師の言葉を落着いて色々な角度から考えなければいけない。圜悟禅師は昔このように(生也全機現…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十九

岩波文庫138ページ「圜悟(えんご)禅師いはく「生也全機現(しょうやぜんきげん)、死也全機現(しやぜんきげん)、逼塞太虚空(ひっそくだいこくう、原本ではひつは門構え)、赤心常片々(せきしんじょうへんぺん)」」 圜悟禅師の言葉として「生きるということ…