正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十五

岩波文庫161、162ページ「祖宗いはく、釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天(とそつてん)、化兜率陀天、于今有在(釈迦牟尼仏、迦葉仏(かしょうぶつ)の所(みもと)にして正法を伝へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在(ましま)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十四

岩波文庫161ページ「あるいはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。諸仏は唯人間(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十三

岩波文庫160ページ「しるべし、生死(しょうじ)は仏道の行履(あんり)なり、生死は仏家の調度なり。使也要使(しやようし)なり、明也明得(みんやみんて)なり。ゆゑに諸仏はこの通塞(つうそく)に明々(めいめい)なり、この要使に得得なとくとく)なり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十二

岩波文庫160ページ「信法頓漸の論にもおよばざる畜類といひぬべし。ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏無道無心無滅なるべしや、無々生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十一

岩波文庫159、160ページ「しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。單生單死の類の有無、かならず参学すべし。わづかに無生の言句をききてあきらむることなく、身心の功夫…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十

岩波文庫159ページ「すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。この道理わづかに疑著せんも、参学の分なり。」 すでに生については、胎卵濕化生という4つを聞…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十九

岩波文庫159ページ「いま仏々祖々の大道には、胎卵濕化生のほかの胎卵濕化生あること、不曾蔵に正伝せり、親密に正伝せり。この道得、きかずならはず、しらずあきらめざらんは、なにの儻類なりとかせん。」 仏、仏祖といわれる方々による真実の中には、単な…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十八

岩波文庫159ページ「仏道を説著するに、胎生化生(たいしょうけしょう)等は仏道の行履(あんり)なりといへども、いまだ濕生卵生(しっしょうらんしょう)等を道取せず。いはんやこの胎卵濕化生(たいらんしっけしょう)のほかになほ生あること、夢也未見在…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十七

岩波文庫158ページ「仏々祖々の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、ともに不曾蔵を徧界と参学すべし。徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。これ行仏一中の威儀なり。」 仏祖である方々がおっしゃる全世界の威儀、全大地の威儀、それはともに明明白白とし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十六

岩波文庫158ページ「この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども威儀行仏なり。」 (尽大地、尽乾坤とはどういうことかということは)極めて大きなものは(見方を変えれば)小さいとい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十五

岩波文庫158ページ「学人おほくおもはく、「尽乾坤」といふは、この南瞻部洲(なんせんぶしゅう)をいふならんと擬せられ、又この一四洲をいふならんと擬せられ、ただ又神丹(しんだん)一国おもひにかかり、日本一国おもひにめぐるがごとし。又、尽大地とい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十四

岩波文庫157、158ページ「しるべし、出生合道出(しゅっしょうごうどうしゅつ)なり、入死合道入(にゅうしごうどうにゅう)なり。その頭正尾正(とうしんびしん)に、玉転珠回(ぎょうてんしゅうい)の威儀現前するなり。仏威儀の一隅を遣有(けんゆう)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十三

岩波文庫157ページ「進歩也錯(しんふやさく)、退歩也錯(ついふやさく)、一歩也錯(いふやさく)、両歩也錯(りょうふやさく)なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔(てんちけんきゃく)するがゆゑに至道無難(しいどうぶなん)なり。威儀儀威(いいぎぎい)、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十二

岩波文庫157ページ「いまの把捉は、放行をまたざれども、これ夢幻空花なり。たれかこれを夢幻空花と将錯就錯せん。」 (「出」「入」の文字など必要ない)と理解すること、またそのようなことを放っておくことは起こるけれども、これは夢、幻、空に咲く花の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十一

岩波文庫157ページ「入之一字(にゅうのいちじ)、出之一字(しゅつのいちじ)、這頭也不用得(しゃとうやふようて)、那頭也不用得(なとうやふようて)なり。」 言葉で、文字で入るとか、出るとか、こちらでもあちらでも、どこでも使う必要はない。 言葉、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十

岩波文庫157ページ「出門便是草(しゅつもんべんしそう)、入門便使草(にゅうもんべんしそう)、万里無寸草(ばんりむすんそう)なり。」 門を出れば様々なことがたくさんある、起こる。門の中に入っても様々なことがたくさんある、起こる。しかし、そんな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十九

岩波文庫157ページ「拈来拈去、出入同門に行履(あんり)する、徧界不曾蔵(へんかいふすんぞう)なるがゆゑに、世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。」 いろいろな行動をこの世界の中で行うのだけれど、この世界は明明白白とした世界なのなのであるから…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十八

岩波文庫156、157ページ「這法(しゃほう)に若至(にゃくし)なり、那法(なほう)に若至なり。」 行・法・身・仏はここにも現れ存在していいるし、あちらにも現れ存在しているのだ。 行動しているときには、世界中のいたるところに行・法・身・仏、真実が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十七

岩波文庫156ページ「眼礙(げんげ)の明々百草頭(めいめいはくそうとう)なる、不見一法(ふけんいっぽう)、不見一物(ふけんいちもつ)と動著(どうじゃ)することなかれ。」 視界の中に映っている明々白々とした存在について、自分にはわからない、自分…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十六

岩波文庫156ページ「承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落(とつらく)あるのみなり。」 日常生活を生きていくのには当然に色々な困難、嫌なこと、つらいことがある、しかしだからこそ自由であるのだ。 よく電車の中で、楽に生きられる、とか成功する、とか安…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十五

岩波文庫156ページ「この行・法・身・仏、おのおの承当(じょうとう)に罣礙(けいげ)あるのみなり。」 この行・法・身・仏が自身の体と一体となり行動するところには、様々なことが起こっていくのみである。 坐禅して行動したからといって、何もかもスムー…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十四

岩波文庫156ページ「すでに恁麼保任(いんもほうにん)するに、諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり。」 頭の中の理想とこの体で行動することが一体となっているならば(恁麼保任)、世界の神羅万象、あらゆる肉体を持ったもの、あらゆる行動、あらゆる仏…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十三

岩波文庫156ページ「かるがゆゑに、古仏いはく、「体取那辺事(たいしゅなへんじ)、却来這裏行履(きゃらいしゃりあんり)。」 そのようなことであるから、過去の仏と言われる方がいうことに、「頭の中で考えたこと(那辺事)を体に取り入れ、今この瞬間に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十二

岩波文庫156ページ「しばらく、行仏威儀に一究あり。即仏即自と恁麼来(いんもらい)せるに、吾亦汝亦(ごやくにゅやく)の威儀(いいぎ)、それ唯我能(ゆいがのう)にかゝはれりといふとも、すなはち十方仏然(じっぽうぶつねん)の脱落(とつらく)、これ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十一

岩波文庫155、156ページ「一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、行仏の容止動静(ようしどうじょう)を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履(あんり)なるがゆゑに、即不中(そくふちゅう)なり、使不得(しふて)なり、量不及…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十

岩波文庫155ページ「一茎草量(いっきんそうりょう)、あきらかに仏祖心量なり。これ行仏の蹤跡(しょうせき)を認ぜる一片なり。」 (頭の中、心の中であれこれ考えるのではなく)一本の草の茎というものが、明かに仏祖の心そのものである。この一本の茎と…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十九

岩波文庫155ページ「心量を挙来(こらい)して威儀を摸索(ぼさく)すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば「世界」のごとし。」 心で考える(頭の中で考える)ことでは仏の行動に備わる威儀を探すことはできないし、考えることもできない。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十八

岩波文庫155ページ「仏量を拈来(ねんらい)して大道を測量(しきりょう)し度量(たくりょう)すべからず。仏量は一隅なり、たとへば「花開(けかい)」のごとし。」 仏の教えを尺度として取り上げて現実の世界を頭の中で評価することはできない。仏の教え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十七

岩波文庫155ページ「こゝに為法捨身(いほうしゃしん)あり、為身捨法(いしんしゃほう)あり。不惜身命(ふしゃくしんみょう)あり、但惜身命(たんじゃくしんみょう)あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なる…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十六

岩波文庫155ページ「行仏の去就これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。」 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているその一つ一つの振る舞いが、現実に明白に仏としての行動を取らせることになるのだから、仏は仏として行動するしかな…