2019-08-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話十八

仏教の修行は出家して艱難辛苦に耐えられる選ばれし人がやるもの、そういう人しかできないみたいな見方が多いように思う。でも、それでは普通の人は仏教の修行ができず救われないことになってしまう。それでは意味がないと私は思う。 厳しい修行に耐えた人が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十七

岩波文庫36ページ「いまだ戒(かい)を受けず、また戒をやぶれるもの、その分(ぶん)なきにあらず」ここは、戒律を守ることが清らかな人生を送るために必要という文章に続くところ。仏門(ぶつもん)に入るためには、受戒(じゅかい)という儀式が必要とさ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十六」

岩波文庫33ページ「かの霊性(れいしょう)(筆者注:身の中にあるもの=心)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるゝゆゑに、ここに滅するとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見(けん)、かくのごと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十五

岩波文庫31ページ「むかしの人師(にんし)、この法(坐禅)をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり」ここのところは、中国には古くから仏教経典が伝えられ、仏教が伝えられているのに、何故菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡り坐禅を伝え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十四

岩波文庫28ページ「仏法には、修証(しゅしょう)これ一等なり。今も証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、」29ページ「修(しゅ)の証(しょう)なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」仏法は修行と真理を体得すること(あまり使いたくないが…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十三 

岩波文庫26ページ「代々(だいだい)の緒祖(しょそ)、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家(ぞくけ)は、実をしらず、ひたゝけて坐禅宗といひき。」代々の真実を得た人達はみんな坐禅を熱心にやった。これを見た愚かな世俗の人々は、真実を知ら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十二

岩波文庫24ページ「又しるべし、われらはもとより無上菩提(むじょうぼだい)かけたるにあらず」 人間にはもともと最高の真実真理が備わっている、と西嶋氏は提唱している。私もそうだと思う。。 けれど坐禅(修行)しないと、本来備わっているものが現れない、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十一

岩波文庫21ページ「経書(きょうしょ)をひらくことは、ほとけ頓漸(とんぜん)修行の儀則ををしへけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしむるとなり」 お経は修行の仕方を教えているもので、それに従って修行(坐禅しながら)すれば真実…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十

岩波文庫20ページ「諸仏の境界(きょうがい)は不可思議なり。心識(しんしき)のおよぶべきにあらず」21ページ「不信の人は、たとひをしうともうくべきことかたし」 20ページのところは、真実に達した人々の状態は考えることができない。人間の感情や意…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その九

岩波文庫18ページ「わづかに一人一時の坐禅といへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界(むじんほうかい)のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事(ぶつけどうじ)をなすなり」 ひとりの一時の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その八

岩波文庫17ページ「静中(じょうちゅう)の無造作にして直証(じきしょう)なる」ただ静かに坐禅していることで直接分かる、体験できるという意味と思っている。 前回、私の思う「悟り」について書いてみたが、ここを読むと私は私の思うところでいいのだと思…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その七

岩波文庫15ページと16ページ。15ページ「打坐して身心脱落(しんじんだつらく)することを得よ」16ページ「本来面目(ほんらいのめんもく)現(げん)ずるとき」 まず身心脱落。引用したところは「坐禅して身心脱落を得なさい」ということでいいと思う。問題は「身…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その六

「自狂にゑうて」について補足したい。 坐禅し始めた頃、頭の中に私を攻撃する人間の顔や声、白眼視や無視の姿、それに対する私の憤激などの感情、これらにより坐禅しながら体が動いたり、叫びそうになったと書いた。 もし、その姿を他人が見ていたら、坐わ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その五  

また、岩波文庫13ページ。「いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂(じきょつ)にゑうて、ひさしく迷郷(めいきょう)にしづまん」 間違った指導者に惑わされて、正しい理解ができなくなって、自分は正しいと勘違いして(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その四

同じく岩波文庫13ページ。「おのづから名利(みょうり)にかゝはらず、道念(どうねん)をさきとせん真実の参学」 名誉、名声、世間の評価を求めず、真実の仏道、仏教を求めるということらしい。 「真実」って何なんだろうか。私が「間違っている」と主張…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その三

今回は岩波文庫の13ページ。「弘通(ぐづう)のこゝろを放下(ほうげ)せむ激揚(げきよう)のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄(うんゆうひょうき)して」のところ。 弘通とは仏道が行き渡ることで、そのことが達成されて(放下)仏教が盛んになる(激揚)のと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その二

辦道話について書いていきたい。まずお断りしておくが、私は現代語訳や全文解釈はしない。そんな力もない。ただ正法眼蔵の中で私の印象に残った、語句、フレーズについて自分の経験、感覚、思いを書くだけ。正法眼蔵について全体を知りたい方は、文献にあた…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その一

今回から、正法眼蔵について私が感じたこと、経験に照らして思うことを書いていきたい。 まずは、辦道話(べんどうわ)だが、その前にお断りしておきたいことがある。 第一に、最初の頃にも書いたが、私は曹洞宗には一切関係ない。また、仏教を学問として勉…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十三

さて「体感」した私はどうなったか。 さすがに会社も音をあげた、呆れ果てたのか、出向して3年ほどで異動になった。出世では勿論なく、左遷とも言えない微妙なものだった。私は特に感じるものはなかった。まあ、こういうもんだろう。 事業はその2年後継続が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十二

その「直感」(言葉では言い表せないので、このように書かせていただく)のあと、私はどうしたか。 それを書く前に、澤木興道氏の提唱の中に「最上のなかに最上なる仏法は、いくら修行しても全く無反応の坐禅のことである」という記述があって、「あれ?自分は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十一

何となく感覚、感じが変わってきた。 それから3か月くらい経った頃だったろうか、朝いつものように坐禅していたときだった。ふっと「自分は正しい。しかし今状況を変えることはできない」と思い浮かんだ、のではないな、何と言えばいいのだろう、思うとか自…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十

何かが変わったような感じ、感覚。うまく表現できないが、2つばかり書いてみようと思う。 坐禅して、怒り、憤激、憎しみ、悲しみがあふれ出てきて、慌てて坐禅に戻るのを繰り返していることに変わりはない。 けれど、その中で、感じたこと。ただし、坐禅し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその九

坐禅をしても状況を打破するアイディアが浮かぶことはない、環境も変わらない。でも坐禅は続けていた。 澤木興道氏の提唱に菩提達磨尊者のところに二祖慧可大師が入門をお願いしたときのことが書いてある。菩提達磨尊者が慧可大師に「入門して何が欲しいか」…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその八

澤木興道氏の辦道話の提唱を読みながら、毎朝5分から30分(短い方が多いけど)坐禅を続けた。相変わらず頭の中には怒り、悔しさ、憎しみ、展望の無さなどが渦巻き、「いかんいかん」と坐禅に戻り、戻った瞬間再び渦に巻き込まれ、体が動いたり、叫んだりもして…