正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その四

 同じく岩波文庫13ページ。「おのづから名利(みょうり)にかゝはらず、道念(どうねん)をさきとせん真実の参学」
 名誉、名声、世間の評価を求めず、真実の仏道、仏教を求めるということらしい。
 「真実」って何なんだろうか。私が「間違っている」と主張したことは、真実を追求したことなのだろうか。
 私が「何故、間違っているのに認めないのか、理解しないのか」と憤激したのは、名利に関わらずしたことなのだろうか。
 分からない。
 ただ、会社の方針、周囲の人間に合わせていれば、楽だったのは間違いない。楽に暫く過ごせば、会社の方針に沿っているのだから、それなりに評価されたかもしれない。けれど、それはできなかった。それが、できるのなら、坐禅しなかったし、正法眼蔵も手に取らなかった。
 それは「真実を求めた」と言えるのかな。ちょっと立派過ぎるような気もするけど。
 お断りしておきたいが、私は、周囲の人間が私の言動をどのように受けとめているか、常に気を配っている。それは「周囲の評価を気にしている」と言われるかもしれない。
 ただ、周囲の受けとめ方が分からないと、自分の行動、今何をしたらよいか決められないのも事実。周囲の反応で右往左往はしていない。だから、自分が正しいと思うことを実行するために気を配っているという意味で「真実」を求めている、と言っていいのかな、と考えている。出世したい、報酬を上げてもらいたいとは思っていないので「名利にかゝはらず」だと自分では思っている。
 でも、人から嫌われたくはない、とも思っているから、所詮中途半端な奴なのかもね。