2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十八

岩波文庫156、157ページ「這法(しゃほう)に若至(にゃくし)なり、那法(なほう)に若至なり。」 行・法・身・仏はここにも現れ存在していいるし、あちらにも現れ存在しているのだ。 行動しているときには、世界中のいたるところに行・法・身・仏、真実が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十七

岩波文庫156ページ「眼礙(げんげ)の明々百草頭(めいめいはくそうとう)なる、不見一法(ふけんいっぽう)、不見一物(ふけんいちもつ)と動著(どうじゃ)することなかれ。」 視界の中に映っている明々白々とした存在について、自分にはわからない、自分…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十六

岩波文庫156ページ「承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落(とつらく)あるのみなり。」 日常生活を生きていくのには当然に色々な困難、嫌なこと、つらいことがある、しかしだからこそ自由であるのだ。 よく電車の中で、楽に生きられる、とか成功する、とか安…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十五

岩波文庫156ページ「この行・法・身・仏、おのおの承当(じょうとう)に罣礙(けいげ)あるのみなり。」 この行・法・身・仏が自身の体と一体となり行動するところには、様々なことが起こっていくのみである。 坐禅して行動したからといって、何もかもスムー…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十四

岩波文庫156ページ「すでに恁麼保任(いんもほうにん)するに、諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり。」 頭の中の理想とこの体で行動することが一体となっているならば(恁麼保任)、世界の神羅万象、あらゆる肉体を持ったもの、あらゆる行動、あらゆる仏…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十三

岩波文庫156ページ「かるがゆゑに、古仏いはく、「体取那辺事(たいしゅなへんじ)、却来這裏行履(きゃらいしゃりあんり)。」 そのようなことであるから、過去の仏と言われる方がいうことに、「頭の中で考えたこと(那辺事)を体に取り入れ、今この瞬間に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十二

岩波文庫156ページ「しばらく、行仏威儀に一究あり。即仏即自と恁麼来(いんもらい)せるに、吾亦汝亦(ごやくにゅやく)の威儀(いいぎ)、それ唯我能(ゆいがのう)にかゝはれりといふとも、すなはち十方仏然(じっぽうぶつねん)の脱落(とつらく)、これ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十一

岩波文庫155、156ページ「一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、行仏の容止動静(ようしどうじょう)を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履(あんり)なるがゆゑに、即不中(そくふちゅう)なり、使不得(しふて)なり、量不及…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十

岩波文庫155ページ「一茎草量(いっきんそうりょう)、あきらかに仏祖心量なり。これ行仏の蹤跡(しょうせき)を認ぜる一片なり。」 (頭の中、心の中であれこれ考えるのではなく)一本の草の茎というものが、明かに仏祖の心そのものである。この一本の茎と…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十九

岩波文庫155ページ「心量を挙来(こらい)して威儀を摸索(ぼさく)すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば「世界」のごとし。」 心で考える(頭の中で考える)ことでは仏の行動に備わる威儀を探すことはできないし、考えることもできない。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十八

岩波文庫155ページ「仏量を拈来(ねんらい)して大道を測量(しきりょう)し度量(たくりょう)すべからず。仏量は一隅なり、たとへば「花開(けかい)」のごとし。」 仏の教えを尺度として取り上げて現実の世界を頭の中で評価することはできない。仏の教え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十七

岩波文庫155ページ「こゝに為法捨身(いほうしゃしん)あり、為身捨法(いしんしゃほう)あり。不惜身命(ふしゃくしんみょう)あり、但惜身命(たんじゃくしんみょう)あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なる…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十六

岩波文庫155ページ「行仏の去就これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。」 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているその一つ一つの振る舞いが、現実に明白に仏としての行動を取らせることになるのだから、仏は仏として行動するしかな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十五

岩波文庫155ページ「行仏之所護念(ぎょうぶつのしょごねん)、行仏之所通達(ぎょうぶつのしょつうたつ)、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。」 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する人=仏が護り念ずるところ、辿…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵  行仏威儀その二十四

岩波文庫155ページ「曹谿古仏の道得(どうて)、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。」 六祖大鑑慧能禅師がおっしゃったことは、たとえ「自分は仏ではない」と考えたとしても仏から見れば「お前は仏である」ということである。 坐禅した瞬間に仏…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十三

岩波文庫ページ「吾亦(ごやく)のゆゑに師勝(ししょう)なり、汝亦(にょやく)のゆゑに資強(しきょう)なり。師勝資強、これ行仏の明行足(みょうそくぎょう)なり。しるべし、是仏之所護念(ぜぶつししょごねん)と、吾亦なり、汝亦なり」 「自分もまた」ということ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十二

岩波文庫154ページ「如汝是汝(にょにょぜにょ)、諸仏諸護念、これ行仏威儀なり。」 自分以外の存在(汝)は「こういうもの」と決めつけることはできないが存在していることは間違いなく、それは「汝」としか言えない(是如)、そのような汝が坐禅して大宇宙の真…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十一

岩波文庫154ページ「この不染汚に、如吾是吾(にょごぜご)、諸仏諸護念(しょぶつしょごねん)、これ行仏威儀なり。」 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している(不染汚)ところに、仮に「吾(自分)」と呼べるものがあるとして、それが吾というものであり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十

岩波文庫154ページ「しかあればすなはち汝亦如是のゆゑに諸仏なり、吾亦如是のゆゑに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。」 そういうことであるから、あなたが坐禅し大宇宙の真理と一体となって行動しているのであるから仏と言われる人たちと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十九

岩波文庫154ページ「曹谿いはく「祇此不染汚(ししふぜんわ)、是諸仏之所護念(ぜしょぶつししょごねん)、汝亦如是(にょやくにょぜ)、吾亦如是(ごやくにょぜ)、乃至西天諸祖亦如是(ないしさいてんしょそやくにょぜ)」 六祖大鑑慧能禅師が言われた「この「…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十八

岩波文庫154ページ「修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。」 修行とか悟りとかを汚されることがないと観念で取り扱うものではない。不染汚なのは行動である、その行動というものは、現実の世界のことであるから、「無い」ということはな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十七

岩波文庫153、154ページ「無仏無人の処在に百千万ありといへども行仏を染汚せず。ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。」 頭の中では、仏も人もいないという場所や無ではなく百千万というような膨大な数を観念としていじくり回すことはできるけれども、実…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十六

岩波文庫「しかあればすなはち、修証(しゅしょう)は無(む)にあらず、修証は有(う)にあらず、修証は染汚(ぜんわ)にあらず」 そういうことであるから、修行という行動とその結果は「無い」訳ではない。しかし修行したから結果が得られる(悟りを開くのような)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十五

岩波文庫153ページ「いひきたる「今猶(こんゆう)は、全「寿命」なり。「我本行(がほんぎょう)」たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横(はくねんほうきゃにんじゅうおう)なり。」 ここで言っている「今猶」この瞬間こそが全寿命、すべての価値であり、す…