2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十八

岩波文庫138ページ「生は一枚にあらず、死は両疋(りょうひつ)にあらず。死の生に相対(そうたい)するなし、生の死に相待(そうたい)するなし」 生は一であり、死は二であるというように考えるものではない。死と生は相対的な存在ではないし、生が死に関連し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十七

岩波文庫138ページ「生は柏樹子(はくじゅし)のごとし。死は鉄漢のごとし。柏樹はたとひ柏樹に礙(げ)せらるとも、生はいまだ死に礙せられざるゆゑに学道なり」 生を例えて言えば、庭に生えている柏の木のようにごく普通にあるものだともいえるし、死を例え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十六

岩波文庫138ページ「生は死を罣礙(けいげ)するにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず」 生と死を別々なものと考えて、生が死を邪魔したり、死が生を邪魔したりするというような関係にあるのではない。生死は凡夫には知り…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十五

岩波文庫137ページ「ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」 (日常生活は生死の繰り返し)それはどういうことかというと、今この瞬間生きているとしても、今という瞬間はその瞬間に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十四

岩波文庫137ページ「これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれど、究尽するに面々みな生死(しょうじ)なるゆゑに恐怖(くふ)すべきにあらず」 毎日毎日瞬間瞬間生死を繰返し生きていく訳だが、このことだけを大宇宙の真理と一体となった「…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十三

岩波文庫137ページ「「生死去来真実人体(しょうじこらいしんじつにんたい)」といふは、いはゆる生死は凡夫の流転(るでん)なりといへども、大聖(だいしょう)の所脱なり」 人間は瞬間瞬間生まれ、死にながら(過去は存在しない=死、現在この瞬間=生)日常…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十二

岩波文庫137ページ「迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際(きわ)にとゞむることなかれ」 今この瞬間瞬間での生活=仏道修行について、迷いとか悟りとか善であるとか悪であるとか、そういう頭の中での抽象的な比較をして論じるようなことをしてはい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十一」

岩波文庫137ページ「捨家出家せる風流たとひ蕭然(しょうぜん)なりとも、樵夫(しょうふ)に混同することなかれ。活計たとひ競頭(きんとう)すとも、佃戸(でんこ)に一斉なるにあらず」 俗世間を出たとしてその日常の様子がたとえ寂しげなものであったとして…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十

岩波文庫137ページ「礼拝問訊するすなはち、動止威儀なり。枯木を画図(わず)し、死灰を磨甎(ません)す。しばらくの間断(けんだん)あらず。暦日は短促なりといへども学道は幽遠(ゆうおん)なり」 礼拝問訊という仏教における挨拶、動いたり止まったりという…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十九

岩波文庫136、137ページ「いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり。これらを蹉過することなく学道するなり。たとひ三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも、捨身受身しもてゆく、かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり」 今現在…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十八

岩波文庫136ページ「尽十方界は八万四千の説法蘊(せっぽううん)なり、八万四千の三昧なり、八万四千の陀羅尼(だらに)なり。八万四千の説法蘊、これ転法輪なるがゆゑに、法輪の転処は亙界(かんかい)なり、亙時(かんじ)なり。方域なきにあらず、「真実人体」な…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十七

岩波文庫136ページ「恁麼の道理、すなはち尽十方界真実人体なり。自然天然の邪見をならふべからず。界量にあらざれば広狭にあらず」 (前回までの)このような道理であるから、すなわちこの大宇宙全体すべてがこの現実の人体と全く同じ、人体そのものなのであ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十六

岩波文庫136ページ「又、一塵に十方を諦観すべし、十方は一塵に嚢括(のうかつ)するにあらず。あるいは一塵に僧堂・仏殿を建立(こんりゅう)し、あるいは僧堂・仏殿に尽界を建立せり。これより建立せり、建立これよりなれり」 また、一つの塵(ちり)のような…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十五

岩波文庫136ページ「「人体」は四大五蘊(しだいごうん)なり、大塵ともに凡夫の究尽するとこにあらず、聖者(しょうじゃ)の参究するところなり」 「人体」は四大(地水火風)五蘊(色受想行識)という物質とその物質を受けての人体の反応からできている。それら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十四

岩波文庫136ページ「思量するといふは、人体はたとひ自他に罣礙(けいげ)せらるといふとも、尽十方界なりと諦観(たいかん)し、決定(けつじょう)するなり。これ未曾聞(みぞうもん)をきくなり。方等なるゆゑに、界等なるゆゑに」 思量するとはどういうことか…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十三

岩波文庫135、136ページ「「尽十方世界」といふは、十方面ともに尽界なり。東西南北四維上下(しゆいじょうげ)を十方といふ。かの表裏縦横の究尽(ぐうじん)なる時節を思量すべし」 「尽十方世界」というのはどういうことかというと、十の方面がすべてことご…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十二

岩波文庫135ページ「たとひ威音王(いおんのう)よりさきに発足(ほっそく)学道すれども、なほこれみづからが児孫(じそん)として増長(ぞうちょう)するなり」 たとえ威音王(釈尊の遥か以前に出現したという仏)よりも前に、この世に生まれて仏道を学んだとしても…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十一

岩波文庫135ページ「しかあるに、棄身するところに揚声止響(ようしょうしきょう)することあり、捨命(しゃみょう)するところに断腸得髓(だんちょうとくずい)することあり」 前回に書いたように、様々な形での真実の伝え方はあるけれども、自分の利得など我…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十

岩波文庫135ページ「或現此身得度而為説法なり、或現他身得度而為説法なり、或不現此身得度而為説法なり、或不現他身得度而為説法なり、乃至不為説法なり」 場合によってはこの身体を現して救う為に説法し、場合によってはこの身体以外を現して救う為に説法…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十九

岩波文庫135ページ「これら閑家(かんか)の破具(はぐ)にあらず、学道の積功累徳(しゃっくるいとく)なり。ふ跳して玲瓏八面(れいろうはちめん)なり、脱落(とつらく)して如藤倚樹(にゅとういじゅ)なり」 「ふ跳」の「ふ」は漢字が見つかりませんでした。興…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十八

岩波文庫135ページ「百丈大智禅師のいはく、「若執本清浄本解脱自是仏、自是禅道解者、即属自然外道」」 百丈懐海禅師がおしゃった「もし自分は本来清く正しい(清浄)であり、本来仏であり、禅とはどういうものか分かっているのだ、などということに執着する…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十七

岩波文庫134ページ「このゆゑに真実人体といふ。後学(こうがく)かならず自然見(じねんけん)の外道(げどう)に同ずることなかれ」 前回にあるように、この現実の身体を使って仏教・仏道を学ぶ。十悪を行わず、八つの戒律を保ち、俗世間に囚われずに行動、学道…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十六」

岩波文庫134ページ「尽十方界是箇真実人体(じんじっぽうかいしんじつにんたい)なり、生死去来真実人体(しょうじこらいしんじつにんたい)なり。この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依(きえ)して捨家出家する、真実の学道なり」 この…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十五

岩波文庫134ページ「身学道といふは、身にて学道するなり。赤肉団(しゃくにくだん)の学道なり。身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり」 身学道というのは、この身体でもって仏教・仏道とは何かを学ぶのである。血の通った肉の塊である身体…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十四

岩波文庫134ページ「寿行生滅(じゅぎょうしょうめつ)の刹那(せつな)に生滅するあれども、最後身(さいごじん)よりさきはかつてしらず。しらざれども発心すれば、かならず菩提の道(どう)にすゝむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十三

岩波文庫134ページ「いまこの蓋天蓋地はおぼえざることばのごとし、噴地(ふんぢ)の一声のごとし。語等なり、心等なり、法等なり」 この天地すべては言葉では言い表せない、言葉を忘れてしまったような存在であり、自然とくしゃみが出てしまう、そのくしゃみ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十二

岩波文庫133ページ「平常心この屋裏(おくり)に開門す、千門万戸一時開閉なるゆゑに平常なり」 平常心は、今現在のこの場所で門を開いている。その門は千あろうが、万あろうがいつも閉じたり開いたりしている、だから平常、普通の状態なのだ。 平常心は特別…