正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十二

 岩波文庫133ページ「平常心この屋裏(おくり)に開門す、千門万戸一時開閉なるゆゑに平常なり」

 平常心は、今現在のこの場所で門を開いている。その門は千あろうが、万あろうがいつも閉じたり開いたりしている、だから平常、普通の状態なのだ。

 平常心は特別な状態ではなく、普通の状態だということなのだろう。ただ、普通の状態というのは何かというと、これは難しい問題だ。頭の中でひねくり回しても無駄だし、逆にとんでもない方向に行ってしまったりする。本人は普通だと思っていても、他人からは異常としか見えないことなんて世の中にはいくらでもある。中国政府の「普通」とアメリカ政府の「普通」は、おそらく相容れないくらい違うように見える。

 大体戦争はお互い相手を「普通」じゃないと思うから起こるのだろう。

 平常心、普通の状態というのは大宇宙の真理と一体となった状態で、それは坐禅することによってしか得られない。

 コロナが感染拡大しているというけれど、経済を回さなければ仕事がなくなり困窮する人も出てくるだろうし、産業のダメージも極力軽くしておかないと、回復に長い時間を要して、結局国民の生活にダメージを与えるだろう。リモートワークなんて言ったって、すべての仕事がリモート化できる訳じゃない。

 GOTOが怪しからんとかいうより、私は感染は拡大するに決まっているのだからそのときの対応を用意していなかった政治が良くないのではないかと思う。予防予防と言ったってそんなにみんながみんな言うことは聞かないだろう。

 法律で強制力を持たせるということは、裏返して言えば、「国民は法律で縛らなきゃ言うことを聞かせられない」と言っているようなものと感じてしまうのは勉強不足、思慮が浅いんでしょうね。