正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十八

 岩波文庫131ページ「恁麼なる、すなはち学道なり。学道は恁麼なるがゆゑに牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)これ心なり。さらに三界唯心(さんがいゆいしん)にあらず、法界唯心(ほうかいゆいしん)にあらず、牆壁瓦礫なり」
 これまで述べてきたようなものが仏道を学ぶということである。学道とはそういうものであるから、牆(かきね)、壁、瓦、礫(小石)という現実世界に実在するものが心である(心と実在する事物は別のものではない)。さらに、欲界・色界・無色界という三つの世界が心であるということではなく、宇宙の森羅万象は心であるということではなく、牆壁瓦礫が心なのである。
 現実の世界に生きていること、それが仏道を学ぶということだから、心というのは三界唯心とか法界唯心というような抽象的な理屈ではなく、現実の世界のすべての存在なのだということだと思う。
 最近、言葉というものに辟易している。なんだか、色んな人がよく分からんことを喋り散らしている。政治家も与野党とも言葉が軽すぎるし、中には意味不明な人もいる。自分の足元の始末もつけられないのに、よくまあ偉そうにしゃべれるもんだ、と感心する。
 新聞などマスコミも表層的なことを言い散らしてそれっきりという感じがする。ネットに至っては、もうカオスですな。
 言葉は重要だ。当たり前だ。しかし、日常の普通の生活がちゃんとできる人の言葉が聞きたい。いや、言葉はいいから普通に生活することの重要さをもっと大切にしてほしい。もう少し静かに黙々と行動して欲しいなと思う。
 何回も女性に暴行して不起訴になっている人がいるという。不起訴という人間の世界の法律の問題と、大宇宙の真理・真実の問題は全く違う。因果の法則は絶対であり、人間界の法律のルールの中でとりあえず泳ぐことができても、行動の結果は必ず現れる。
 それに、こういう人間が現れてしまう世界を何とかしようと思えば、私には、坐禅が普及することしかないと思う。そんなこと言っても誰も聞いてくれないでしょうけどね。
 しかし、理屈の空しさ、ひとりよがりの思想の恐さ、思想に取りつかれた権力の恐ろしさは、溢れ返っている。理屈・思想では解決できない、坐禅という形で大宇宙の真理を身心で学ぶしかないと思うのですがねえ。