2020-06-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十五

岩波文庫114ページ「いまいふ十二時は、人間(にんげん、じんかん)の十二時なるべきか、他那裏(たなり)に十二時のあるか、白銀世界(びゃくごんせかい)の十二時のしばらくきたれるか」 今、取り上げている十二時は、人間にとっての、人間の世界の十二時…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十四

岩波文庫ページ「この十ニ時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん」 この十二時中(1日中、常に)の「時」というのは、どのような時が来ているというのか、どこの国土のことをいうのか。 今の瞬間瞬間を生きるのだから、「今はどう…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十三

岩波文庫113ページ「黄檗いはく、「十二時中不依倚一物(ふえいいちもつ)」といふ宗旨(そうし)は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時中なるがゆゑに仏性明見なり」 黄檗禅師の言う「十二時中不依倚一物」の意味…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十ニ

岩波文庫113ページ「たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得(どうて)なり」 (前回を受けて)明見仏性、明々白々として仏性が現れるということは、言葉の上でのことでは…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十一

岩波文庫113ページ「いはゆる「定慧等学(じょうえとうがく)」の宗旨(そうし)は、定学(じょうがく)の慧学(えがく)をさへざれば、等学するところに明見仏性(みょうけんぶっしょう)のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。「此…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十

岩波文庫112、113ページ「南泉云、「莫便是長老見処麼」。黄檗日、「不敢」。南泉云、「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還」。黄檗便休」 前回書き忘れたけど、南泉普願禅師は馬祖道一禅師の法を嗣いだ人、黄檗希運禅師は馬祖道一禅師の法を嗣いだ百丈懐海禅師の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十九

岩波文庫112、113ページ。ここは黄檗希運(おうばくきうん)禅師と南泉普願(なんせんふがん)禅師の問答が書かれている。 「黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。黄檗云、「十二時中不依倚一物始得」」 黄檗希運禅師が南泉…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十八

岩波文庫112ページ「すでに仏性の処在なり、動著(どうじゃ)し、厭却(えんきゃ)するは外道なり。現前の衆縁(しゅえん)と認ずるは使得無礙風(すてむげふう)なり。これ最上乗なる是仏(ぜぶつ)なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土(じょうみょうこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十七

岩波文庫111、112ページ「生(しょう)を使得(すて)するに生にとゞめられず。死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖(くふ)することなかれ」 生きているという現実の中にいて「生」に執着して身動きできないと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十六

岩波文庫111ページ「これすなはち百丈の道処ならり。いはゆる五蘊(ごうん)は、いまの不壊身(ふえしん)なり。いまの造次(ぞうじ)は開門なり、不被五陰礙(ふひごおんげ)なり」 これが百丈懐海禅師のおっしゃるところである。五蘊(色受想行識)この大…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十五

岩波文庫110、111ページ。ここでは百丈山大智(ひゃくじょうざんだいち)禅師(百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師)の行った説法を取り上げておられる。 すべてをここに書くとかなり長くなってしまうので、私なりに要約してみたいと思う。 仏とは最高のも…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十四

岩波文庫110ページ「また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得(どうて)すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在(むやみけんざい 夢にもまた未だ見ざること在る)なり。試挙…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十三

岩波文庫110ページ「たとひ説得(せって)せば説著(せつじゃ)を罣礙(けいげ)せん。説著あらば、聞著と同参なるべし」 仏性について説明できるのなら、説きあらわしたことが現実の世界の中に真実として存在するだろう。説くことができるのなら、真実を聞…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十ニ

岩波文庫「且問你(しゃもんにい、ちょっとおたずねしよう)、大潙、百丈しばらくきくべし。謗(ほう)はすなはちなきにあらず、仏性は説得(せって)すやいまだしや」 ここで、ちょっとおたずねしたい。大潙、百丈に聞きたい。有仏性と言っても、無仏性と言…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十一

岩波文庫109、110ページ「このゆゑに百丈(ひゃくじょう、百丈懐海(ひゃくじょうえかい、馬祖道一の法を継いだ))いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性、亦謗仏法僧(衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗(ほう)ず。衆生に仏性無しと説く…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十

岩波文庫109ページ「衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨(そうし)なり。張公喫酒李公酔(ちょうこうきしゅりこうすい)といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十九

岩波文庫109ページ「さらに摸サク(手偏に索、ぼさく)すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔儻(まとう)なるべし。魔子(まし)一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり」 …

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十八

岩波文庫109ページ「いま大潙道(だいいどう)の理致(りち)は、「一切衆生無仏性」を理致とせり。いまだ曠然縄墨外(こうぜんじょうぼくげ)といはず。自家屋裏(じけおくり)の経典(きょうでん)、かくのごとくの受持(じゅじ)あり」 潙山霊祐禅師の仏…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十七

岩波文庫108、109ページ「いま大潙(だいい)はしかあらず、一条拄杖呑両人(いちじょうしゅじょうたんりょうにん)なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫(そん)なり。しかあれども、法孫(ほっそん)は師翁(すおう)の道(どう)に老大…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十六

岩波文庫108ページ「しかあれども、「一切衆生無仏性」のみ仏道に長(ちょう)なり。塩官有仏性の道(どう)、たとひ古仏とともに一隻(いっしゃく)の手いだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁(いちじょうしゅじょうりょうにんよ)なるべし」 (有無…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十五

岩波文庫108ページ「大潙山大円(だいゐさんだいゑん)禅師、あるとき衆(しゅ)にしめしていはく、「一切衆生無仏性(いっさいしゅじょうむぶっしょう)」。これをきく人天(にんでん)、よろこぶ大機(だいき)あり、驚疑(きょうぎ)のたぐひなきにあらず…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十四

岩波文庫107、108ページ「国師たとひ会得(ういて)を道得(どうて)に承当(じょうとう)せずとも、承当の期(ご)なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取(ういしゅ)せざれども、四大五陰(しだいごおん、四大五蘊に同じ)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十三

岩波文庫107ページ「しかあれば、一切仏性有衆生なり。これその道理は、衆生を説透(せっちょう)するのみにあらず、仏性をも説透するなり」 そういうことであれば、すべての仏性=有=衆生である。このように考えるならば、衆生とは何かを完全無欠に説明する…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十二

岩波文庫107ページ「「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」といふと参学すべし。有仏性の有(うぶっしょうのう)、まさに脱落(とつらく)すべし。脱落は一条鉄(いちじょうてつ)なり、一条鉄は鳥道(ちょうどう)なり」 「一切衆生がそのまま…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十一

岩波文庫107ページ「いま国師の道取する宗旨(そうし)は、「一切衆生有仏性」のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、「一切諸仏有仏性也無(やむ)」。かくのごとく問取(もんしゅ)し、試験(しけん)すべき…