正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十五

 岩波文庫110、111ページ。ここでは百丈山大智(ひゃくじょうざんだいち)禅師(百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師)の行った説法を取り上げておられる。
 すべてをここに書くとかなり長くなってしまうので、私なりに要約してみたいと思う。
 仏とは最高のものである。仏として生きることが人間として生きることを可能としている。仏は自由自在、融通無碍であり、何ものにも邪魔されることなく、因果を使いこなし、幸福だとか智恵を自由にすることができる。生きているときに「生」という枠に閉じ込められることなく、死ぬときに「死」という概念に邪魔されることもない。色受想行識(五蘊)という現実の中で自由自在となれる門が開いたようなものである。また、色受想行識(五蘊)という現実にとらわれ、振り回されることもない。自由自在に容易に行動できる。このようなことであるから、偉いとか偉くないとか地位は問題にならないし、蟻であっても、その身は素晴らしく広大な国土と同じであり、そのことは頭の中で理屈をこね繰り回しても考えられるものではない。
 坐禅すれば仏になる。
 この箇所を読んで、私が清々しい、すかっとした気持ちになれるのは、「生」「死」という概念から解き放たれているというところだ。前に描いた「生は一時の位なり、死も一時の位なり」と同じだと思う。
 生きているときは、その瞬間を生きればいいだけだ。
 私は、変だと思うとかっとなる。時には殴ってやろうかと思うこともある。坐禅してるから平常心なんてことはない。変なことは変だと思うのは当たり前、普通のことだ。普通なだけだ。どう怒るか、どう行動するかは坐禅が指し示してくれている。
 この世界には変なことがたくさんある。それに対して、平安無事、心穏やかに、達観しているなんてのは仏教ではない。七転八倒するのが現実だ。苦しみがない、悩みがないなんてことにはならない。仏教によって、坐禅によって間違ってない苦しみ方、間違ってない悩みになるだけだ。
 その意味で、自由自在だと思っている。
 仏教で苦しみのない、悩みのない世界に行けるなんていうのは、商売として仏教の名前を使っているだけだど思っている。