2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十二

岩波文庫124ページ「風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある」 風火未散という言葉を落ち着いてよく考えなければいけない。未散というのはどういう意味なのか。どうして未散と言ったのか。 道元禅師は重要な箇所について…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十一

岩波文庫124ページ「仏性の活計(かっけ)は、長沙の道(どう)を卜度(ぼくたく)すべし」 一切衆生=悉有=仏性であるから、すべての存在(仏性)が活き活きと日々瞬間瞬間を生きているということについて、長沙の言葉をしずかにいろいろと考えてみなければい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十

岩波文庫124ページ「ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。たゞ「莫妄想(ももうぞう)」と道取す、「風火未散」と道取す」 そのため長沙禅師はみみずに仏性が有るとは言わず、仏性が無いとも言わなかった。ただ、妄想するな(頭の中でいじ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十九

岩波文庫124ページ「仏性と風火と、倶出(ぐしゅつ)すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず」 仏性と風火とが一緒に現れていると言ってはいけないし、一方が現れたら一方は現れないと言ってはいけない、風火=仏性と言…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十八

岩波文庫124ページ「仏性なりとやせん、風火なりとやせん」 二つに切れたみみずが動いているのは、仏性だとするのか、風火だとするのか。 言葉という抽象的なレベルで「仏性」「風火」を扱ってはいけないと私は思っている。 言葉のレベルと現実の世界、特に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十七

岩波文庫124ページ「「風火未散(ふうかみさん)」といふは、仏性を出現せしむるなるべし」 長沙禅師が「風火未散」と言ったのは、仏性が現れているのだ、ということである。 この世界の現実、事実あるいは存在すべてが仏性なのだ。仏性そのものが「こういうも…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十六

岩波文庫124ページ「「動ずるはいかゞせん」といふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著(どうじゃ)するか」 「現に動いているではないか、これをどう考えるのか」というのは、動いているならば、仏性をその…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十五

岩波文庫123ページ「仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、たゞ妄想なしと道取するか、とも参究すべし」 (長沙禅師が「妄想することなかれ」「莫妄想」と言ったのは)仏性のことを論ずる必要はない、二つに切れたみみずのことをどうこう言う必要はない…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十四

岩波文庫123ページ「しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、たゞ仏性は妄想なしといふか」 ということであるのなら、切れたみみずの二つ両方が動いているというのは、目の前の現実であり妄想など関係ない、妄想ではないと言っているの…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十三

岩波文庫123ページ「妄想(もうぞう)することなかれ、といふなり」 妄想するな、頭の中で観念的にこね繰り回すな、と言っているのだ。 道元禅師はこの後、「妄想」についていくつかの視点から解説をされる。 妄想することなかれ、というのは中々難しいことだ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百十二

岩波文庫123ページ「師いはく、「莫妄想(ももうぞう)」。この宗旨(そうし)は、作麼生(そもさん)なるべきぞ」 長沙禅師は言った「妄想するな」この意味はどういうことか、ここが大事なところだ。 この後、道元禅師は「妄想するな」「妄想」とは何かを解説し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百十一」

岩波文庫123ページ「俱動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか」 二つに切れた両方とも動く、動くという点では両方動いているが、仏性はどちらにあるのかと言っているのか。 道元禅師は、このように様々な視点…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百十

岩波文庫123ページ「「両頭俱動(りょうとうくどう)、仏性在阿那箇頭(ぶっしょうざいおなことう)」といふは、俱動ならば仏性の所在に不堪(ふかん)なりといふか」 「二つに切れた両方が動く、仏性はどちらにあるのでしょうか」と言うのは、両方とも動いて…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百九

岩波文庫123ページ「この道得(どうて)は審細にすべし」 この言葉(みみずが切れたのか、仏性が切れたのか)は、慎重に詳細に検討しなければいけない。 今は言葉がインターネット上に溢れている。また、情報媒体も様々で大量の情報を流している。言論の自由は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百八

岩波文庫123ページ「「未審、仏性在阿那箇頭(みしん、ぶっしょうざいおなことう)」。「仏性斬為両段(ぶっしょうぜんいりょうだん)、未審(みしん)、蚯蚓在阿那箇頭(きゅういんざいおなことう)」といふべし」 一体仏性は二つに切れたどちらにあるのでしょう…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百七

岩波文庫123ページ「その動といふに倶動といふ、定動智抜(じょうどうちばつ)ともに動なるべきなり」 動というときに俱に動くというのは、定(じょう)つまり坐禅によって心身がバランスした状態における動き(行動)であるし、また心身がバランスした状態で…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百六

岩波文庫123ページ「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」 二つに切れたとしてもそれは一つ(倶に動いているし)だとしたら、そのほかにさらに一つというものがあるのか。 正法眼蔵を読んでいると、道元禅師という方は、どうしてこういうふうに考え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百五

岩波文庫123ページ「両頭の語、たとひ尚書の会不会(ういふうい)にかゝはるべからず。語話をすつることなかれ」 一つとか二つとか言っているが、そのことがどういうことか尚書がわかっていてもいなくても、それはどうでもよい。ただ、「両頭」という言葉はど…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百四

岩波文庫122、123ページ「「両頭倶動(りょうとうぐどう)」といふ両頭は、未斬(みぜん)よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」 二つとも動くというけれどその「両頭」というのは、切れる前は一つだとするのか、仏というのは常に修行(坐禅)をし続ける…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百三

岩波文庫122ページ「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし」 みみずはもともと一つとは言えない、切れて二つになったとも言えない。一つであるとか二つであるとか、そのように言うことについて、まさによく…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百二

岩波文庫122ページ「いま尚書いはくの「蚯蚓斬為両段(きゅういんぜんいりょうだん 蚯蚓斬れて両段と為る)」は、未斬時(みぜんじ)は一段なりと決定(けつじょう)するか。仏祖の家常(かじょう)に不恁麼(ふいんも)なり」 尚書が言う「みみずが切れて二つになった…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百一

岩波文庫122ページ「長沙景岑和尚(ちょうしゃけいしんおしょう)の会(え)に竺尚書(じくしょうしょ)とふ、 「蚯蚓(きゅういん)斬れて両段(りょうだん)と為る、両頭倶(りょうとうとも)に動く。未審(いぶかし)、仏性阿那箇頭(ぶっしょうおなことう)にかある」 師…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百

岩波文庫122ページ「知而故犯(ちにこぼん)なりとも有仏性なるべし」 頭の中の理屈としてあれこれ言うことができる、あるいは言わないと仏教を広めることができないから言わざるを得ないのだけれども、そのように行動する、生きるということが「仏性が有る」…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十九

岩波文庫121ページ「しかあれば、半枚学仏法辺事(はんまいがくぶっぽうへんじ)ひさしくあやまりきたること日深月深(にっしんがっしん)なりといへども、これ這皮袋(しゃひたい)に撞入(とうにゅう)する狗子なるべし」 仏法の一部をちょっとだけ学ぶ(頭の中で観…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十八

岩波文庫121ページ「いはんや、雲居高祖(うんごこうそ)いはく、「たとひ仏法辺事を学得(がくて)する、はやくこれ錯用心了也(さくようじんりょうや)」」 言うまでもないことだが、雲居道膺(うんごどうよう)禅師のおっしゃるように「たとえ仏法の周辺・一部を…