正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百二

 岩波文庫122ページ「いま尚書いはくの「蚯蚓斬為両段(きゅういんぜんいりょうだん 蚯蚓斬れて両段と為る)」は、未斬時(みぜんじ)は一段なりと決定(けつじょう)するか。仏祖の家常(かじょう)に不恁麼(ふいんも)なり」
 尚書が言う「みみずが切れて二つになった」ということは、切られる前は一つだと決めつけているのか。そのようなことでは、仏祖である方々の日常生活が身に付いていない。仏祖の日常生活はそのようなものではない。
 この後も詳細に道元禅師の解説が続く。
 ここのところは、頭の中の理屈に囚われているのは仏教の態度ではない、ということだと思っている。
 切れたら二つになり、仏性はどちらにあるかと言うが、ならば切られる前は一つと考えるのなら、仏性は一つなのか。そういう理屈をこね回すことが仏教ではない。
 しかし一方で、「仏性」という言葉はある。仏教において「仏性」というものをどう理解したらよいか、これは重要な問題だ。
 道元禅師が正法眼蔵で仏性について、これだけの分量を費やして解説をされているのは、「仏性」について、訳のわからないことをさも分かっているかのように説いている人たちがたくさんいるので、仏性を正しく伝えなければいけないと思われたのだろう。
 今の世の中でも、何だかもっともらしいけれど、よくよく聞くと意味不明、あるいは「じゃどうするの?」というようなことを、得意満面に語っている人たちを見かける。表面的には格好いいので評価されたり、支持されちゃったりする。
 何だか上っ面の幼稚な世の中になってやしないですかね?
 坐禅して心身のバランスを取り戻す、本来の面目に戻る必要があると思うけど。ただ、この前にも書いたけど、それは、普通の状態、当たり前になることだから、目立たないんだよね。だから、受け入れられないだろうなあ。