正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十八

 岩波文庫100ページ「しかあれば、「身現」の説仏性なる、「虚明」なり、「廓然」なり。説仏性の「身現」なる、「以表諸仏体」なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり」
 そういうこと(現実の肉体、姿を現すことが仏性を表す)であるから、現実の姿を現すことが仏性とは何かを説いていることは、あれこれ言うまでもなく明らかであり、はっきりしている。仏性を説くことは現実の姿を現すことであり、大宇宙の真理を体得し、一体となった人々(仏)が姿を表すことである。現実の姿を表すことがなかった仏などあり得ない。仏としての体は、現実の肉体、姿であり、その姿を表すことと仏性は同じことなのだ。
 道元禅師は徹底して、仏性とは現実の存在であると繰り返し繰り返し説いておられる。
 私には、仏教の神秘性を徹底して否定されていると思われる。
 仏教を信仰すると死んでから極楽浄土に行けるというような話がある。それを信じられる人、それで幸せな人は、それでいいと思う。
 でも私には理解できないし、死んだあとどうなるかを心配している暇はない。道元禅師のおっしゃる「生も一時の位なり、死も一時の位なり」だと思う。生きている、この瞬間をどう生きるか、それだけだと思う。
 コロナに対して、仏教を信じれば死んでも極楽浄土に行けますよ、と言われて安心できるだろうか?繰り返すけど、それで良いという人を批判しているのではない。私には無理だということ。
 現実をしっかり捉えて、どう行動するかは、コロナに限らず全てにおいて、これしかないと思っている。このように仏教を理解すれば(仏教はそういうものだと私は信じているが)、仏教は現代を救うものだと思うのだけれど。
 しかしまあ、言葉の溢れている世の中ですねぇ。情報化社会ってこういうものなんですか?生きていく上で必要だと思える情報は、とても少ないと感じる。これも現実なので仕方ないけど。