2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十八

岩波文庫148、149ページ「しかあればすなはち、即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず」 であるから、即心是仏とは、真実を知りたいという気持ち…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十七

岩波文庫148ページ「椅子払子心(いすほっすしん)は椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるゆゑに、即心是仏、不染汚(ふぜんわ)即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり」 椅子や払子(木の棒の先に白い毛がついたもの)は椅子払子である。竹…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十六

岩波文庫148ページ「牆壁瓦礫心(しょうへきがりゃくしん)は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心(しだいごうんしん)は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし」 土でできた壁や瓦や小石=心であり、それ以上でもそれ以下でもない。壁を作る…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十五

岩波文庫148ページ「山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし」 山河大地=心なのだから、山河大地以外に何もあり得ない。波風があるとか無いとか人間が頭の中で余計なものを付…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十四

岩波文庫148ページ「あきらかにしりぬ、心とは山河大地(せんがだいち)なり、日月星辰(にちがちしょうしん)なり。しかあれども、この道取するところ、すゝめば不足あり、しりぞくればあまれり」 あきらかにわかる。「心」と山河大地は一体・同じものであり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十三

岩波文庫147、148ページ「古徳云(いはく)「作麼生是妙浄心(そもさんかこれみょうじょうしん)。山河大地、日月星辰(せんがだいち、にちがちせいしん)」 古徳(潙山霊祐禅師)が言ったものに「妙浄心とはどういうものでしょうか(という問いに対し)、この…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是心その二十二

岩波文庫147ページ「しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落(がいてんぼくらく)し、迊地裂破(そうちれっぱ)す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます」 知らねばならない。坐禅によって心を体得するときには、世界を覆っている天全体が崩れ落…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十一

岩波文庫147ページ「このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土」 このようなことであるから古人(長霊守卓禅師)の言葉に「もし心というものを体得できたなら、大地には一寸の土も存在しない」というものがある。 心=大宇宙である。大地も大宇宙そのも…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十

岩波文庫147ページ「かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、まさしくこれを挙(こ)して即心是仏に正伝するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。いはゆる正伝しきたれる心(しん)といふは、一心一切法、一切法一心なり」 このように学んでいくことが…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十九

岩波文庫147ページ「あるいは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究す」 即心是仏を学ぶということは、心即仏是心=仏を学ぶことであり、仏即是心、仏とは心であると学ぶことであり、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十八

岩波文庫147ページ「「心(しん)」牆壁(しょうへき)あり、いまだ泥水(でいすい)せず、いまだ造作(ぞうさ)せず」 「心」というのは目の前の現実、例えば土でできた壁であり、壁を作るために泥を水でこねることもないし、そもそも何かを作ろうなどとはしない…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十七

岩波文庫147ページ「「是(ぜ)」三界(さんがい)あり、退出にあらず、唯心にあらず」 この現実の世界は、欲界、色界、無色界という3つの世界から成り立っている。そこから抜け出すこともないし、ただ精神的・抽象的なものというものでもない。 ときどきこの世…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十六

岩波文庫146ページ「「即(そく)」公案(こうあん)あり、見成(げんじょう)を相待せず、敗壊(はいえ)を廻避(ういひ)せず」 今の現実が法(大宇宙の真理、公案)なのであるのだからそれが現れるのを待つ、あるいは現実と自分は一体なのだから相対的な関係ではな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十五

岩波文庫146ページ「「仏(ぶつ)」百草(はくそう)を拈却(ねんきゃ)しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身(こんじん)に説似(せつじ)せず」 大宇宙の真理・現実を体得した方々は、この世の中の色々な存在を実際に取り上げたり、手放したり具体的な…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十四

岩波文庫146ページ「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず、唯仏祖与仏祖(ゆいぶっそよぶっそ)のみ即心是仏しきたり、究尽(きゅうじん)しきたる聞著(もんじゃ)あり、行取(あんしゅ)、証著(しょうじゃ)あり」 仏祖が体得…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十三

岩波文庫146ページ「近代は大宋国に諸山の主人とあるやから、国師のごとくなるはあるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。しかあるに、世人(せじん)あやまりておもはく、臨済・徳山も国師にひとしかるべしと。かくのごとくの…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十二

岩波文庫145、146ページ「大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨(そうし)をあきらめて、参学の亀鑑(きかん)とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ」 大証国師(南陽慧忠禅師)は六祖大鑑慧能禅師の優れた弟子…