正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十四

 岩波文庫146ページ「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず、唯仏祖与仏祖(ゆいぶっそよぶっそ)のみ即心是仏しきたり、究尽(きゅうじん)しきたる聞著(もんじゃ)あり、行取(あんしゅ)、証著(しょうじゃ)あり」

 仏祖が体得している即心是仏は、仏教以外の思想の人々や頭だけで仏教を考えている人々や感覚を頼りに仏教を勉強しようとする人々には夢にも見ることはできない。ただ仏祖と仏祖のみが即心是仏を体現し、極め尽くし、聞いたり、行動したり、体験して実証しているのである。

 即心是仏は坐禅の境地・内容だと思っている。坐禅以外の方法では体得できない。頭で理解するものではない。理屈・理論ではないのだ。また感覚に頼って身に付くものでもない。道元禅師はそのことを正法眼蔵の中でありとあらゆる角度から繰り返し書いておられる。

 今の世の中、頭でっかちであり、かつ感情過多であるように見える。自分は正義だという考えに取り付かれ、その正義に反するものをこれでもかと感情的に攻撃する。あるいは欲望に振り回され、自分のやっていることが異常だということがわからなくなっている人たちがいる。正直醜いと感じてしまう。

 「普通」という感覚が社会から失われているのじゃなかろうか?メディアの言っていることなど信じてはいないが、一部には事実もあるだろう。つまらん利得・欲望・見栄・地位などに執着して、おかしくなっちゃっているんじゃないのかな?

 「普通」とは大宇宙の真理であり、それは坐禅に頼るしかない。