2020-11-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十三

岩波文庫130ページ「向来(きょうらい)はたゞこれ心(しん)の一念二念なり。一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり」 過去は心が瞬間瞬間にとらえたものの積み重ねである。その瞬間瞬間にとらえたものを具体的に言えば山であり河であり大地という現実の世…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十二

岩波文庫130ページ「生時(しょうじ)は一点を増(ぞう)ずるか、増(ぞう)ぜざるか。死には一塵(ぢん)のさるか、さらざるか。この生死および生死の見(けん)、いづれのところにおかんとかする」 この世界に生まれたとき、そのときには何か一つが増えたのだろうか…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十一

岩波文庫130ページ「恁麼(いんも)なるがゆゑに、一心の所見、これ一斉なるなり。これらすでに心(しん)なり。内(ない)なりとやせん、外(げ)なりとやせん。来(らい)なりとやせん、去(こ)なりとやせん」 色々な立場において心として見るところは、その立場、立…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十

岩波文庫130ページ「日月星辰(にちがつしょうしん)は人天(にんでん)の所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず」 太陽や月、星も人間界と天上界では見方は異なるだろう、様々な存在ごとに見方は異なるだろう。 諸類を人間・天上・餓鬼・畜生など仏教用語…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十九

岩波文庫130ページ「万般(ばんぱん)なりといふとも、地(ぢ)なかるべからず、空(くう)を地(ぢ)とせる世界もあるべきなり」 様々な有り様はあるけれども、大地というものが無いということではない、また(例えば空を飛んでいる鳥のように)空が大地としているよ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十八

岩波文庫129ページ「地(ぢ)はかならずしも土(ど)にあらず、土(ど)かならずしも地(ぢ)にあらず。土地(どぢ)もあるべし、心地(しんぢ)もあるべし、宝地(ほうぢ)もあるべし」 地といっても必ずしも土でできているわけではない、土があるならば地であるというこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十七

岩波文庫129ページ「北倶盧洲(ほくくるしゅう)には四阿耨達池(しあのくだっち)あり。海あり、池あり」 北倶盧洲には阿耨達池があるし、海も池もある。 須弥山の周り東西南北には4つの島(大陸)があって、北にあるのが北倶盧洲だそうだ。ここに住んでいる人は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十六

岩波文庫129ページ「河もさらにおほかるべし、天河(てんが)あり、地河(ちが)あり、四大河(しだいか)あり、無熱池(むねつち)あり」 河といってもたくさんの河がある。天を流れる河(天の川?)もあるし、地を流れる河もある、四つの大きな河と言われ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十五

岩波文庫129ページ「色(しき)にかかるあり、空(くう)にかかるあり」 (山河大地といっても)物質の世界にあるものもあり、観念的・抽象的(頭の中)の世界のものもある。 「空」については、水野氏の訳では「空間に存在する」とされているが、私は西嶋和…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十四

岩波文庫129ページ「横(おう)に処せるあり、竪(しゅ)に処せるあり。三千世界あり、無量国あり」 (山河大地、須弥山など)横にずっと連なっている処もあるし、高くそびえ立っている処もある。この世界は無数の世界が複雑に絡み合って存在しているし、数え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十三

岩波文庫129ページ「山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。大地は此処(ししょ)のみにあらず、山もおほかるべし、大須弥(しゅみ)小須弥あり」 山河大地というのは、山河は例えば山であり、水である。大地は今のこの場所だけではない。山もたくさんある…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十二

岩波文庫129ページ「しばらく山河大地日月星辰(せんがだいちにちがつせいしん)、これ心(しん)なり。この正当恁麼時(しょうとういんもじ)、いかなる保任(ほうにん)か現前する」 山や河そして大地、太陽、月、星、大自然、大宇宙、これらが心なのだ。まさ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十一

岩波文庫129ページ「かくのごとく学道するに、有功(ゆうこう)に賞おのづからきたり、有賞(ゆうしょう)に功いまだいたらざれども、ひそかに仏祖の鼻孔(びくう)をかりて出気(すいき)せしめ、驢馬(ろば)の脚蹄(きゃくてい)を拈じて印証せしむる、すなはち万…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十

岩波文庫129ページ「これを眼睛(がんぜい)に団(だん)じきたること二三斛(ごく)、これを業識(ごっしき)に弄(ろう)しきたること千万端(せんばんたん)なり」 (思量箇不思量底、非思量などを積み重ねてきたものを)丸めて目の玉に入れるならばその量は二三斛(斛は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十九

岩波文庫128,129ページ「世の所捨なる、非思量なり」 仏道のために俗世を捨てるということがあっても、それは頭の中で考えてすることではない。考える対象ではない。 仏道、大宇宙の真理を追求しようとするのは、思考ではない。ただ坐禅すること。だから非…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十八

岩波文庫128ページ「山の所入(しょにゅう)なる、思量箇不思量底(しりょうこふしりょうち)なり」 釈尊が身分を捨て城を出て山に入ったというのは、思量箇不思量底ということである。思量箇不思量底というのは、正法眼蔵の「坐禅身箴(ざぜんしん)」の巻や、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十七

岩波文庫128ページ「踰城(ゆじょう)し入山(にっさん)する、出一心(しゅついっしん)、入一心(にゅういっしん)なり」 踰城とは釈尊が悉多太子と言った頃(国王の跡継ぎ)に真理を求めて城を出たこと、入山は、俗に言えば世間を捨てて山に入ったこと。この城を出…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十六

岩波文庫128ページ「剃髪染衣(ていはつぜんえ)、すなはち回心(ういしん)なり、明心(めいしん)なり」 剃髪、髪の毛を剃ること、墨染の衣を着ること、お袈裟をかけること、つまり僧侶の姿となることは、仏道に心を回らし、心を明らかにすることである。 形式を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十五

岩波文庫128ページ「碓米伝衣(ついめいでんえ)する、以心学心なり」 碓米伝衣というのは、五祖大満弘忍禅師から六祖大鑑慧能禅師に法が伝わったことを言っている。六祖は、樵をしていて文字を読めない、書けないということで、作男として米つき小屋で米をつ…