正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十九
岩波文庫128,129ページ「世の所捨なる、非思量なり」
仏道のために俗世を捨てるということがあっても、それは頭の中で考えてすることではない。考える対象ではない。
仏道、大宇宙の真理を追求しようとするのは、思考ではない。ただ坐禅すること。だから非思量。真理を知りたい=発菩提心、坐禅する。これは思考など介入しない自然な流れ。
頭の中で色々こねくり回しているとおかしなことになることが往々にしてある。コロナ鬱というのがあるそうだ。病気なのだから仕方ないのだろうけど、コロナで環境が変わったのが原因だそうな。
しかし、世界は無常なのだから、いつも、いつまでも同じ状況が続くことがある訳がない。状況が変わるのは当たり前で、当たり前のことで騒いだってしょうがない。また、無常なのだからコロナがいつまでも続くわけでもないだろう。コロナウィルスなんて自然現象なのだから人間はコントロールできない。
コロナについて評論家とやらが何か言っているけれど「結局のところ人間はどうすればよくて、どうなるのか」さっぱりわからない。言うだけなら、お気楽なもんだ。
医療体制は有限なのだから、コロナのせいで治療すれば助かる人が死んでしまうんじゃだめなんだろう。まあ、難しいんだろうね。色んな立場、権益も絡んでいるんだろうし。
死は避けられない。どのように死を迎えるのかも分からない。だから、生きている間は大宇宙の真理に従って生きていこうと思う。そのために坐禅している。