2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十

岩波文庫106、107ページ「国師の道取する有仏性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。」 斉安禅師がおっしゃっている「有仏性」とは、これまで述べてきたとおりである。もし、そうでないということであれば…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十九

岩波文庫106ページ「しかあれば、心(しん)みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心(しん)なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰(にちがつせいしん)これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十八

岩波文庫106ページ「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者(うしんしゃ)みな衆生なり、心是衆生(しんぜしゅじょう)なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし。衆生是心(しゅじょうぜしん)なるがゆゑに」 仏道でいう一切衆生とは、「心」を持っているもの…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十七

岩波文庫106ページ「杭州塩官県斉安国師(こうしゅうえんがんけんせいあんこくし)は、馬祖下(ばそか)の尊宿なり。ちなみに衆(しゅ)にしめしていはく、「一切衆生有仏性(いっさいしゅじょううぶっしょう)」。いはゆる「一切衆生」の言(ごん)、すみや…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十六

岩波文庫105、106ページ「聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし」 (前回のところで、聴教のともがら、坐禅の雲衲云々と言う者たちがいるが)そもそも「聴教」という上っ面の言…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十五

岩波文庫105ページ「あるいはいふ、聴教(ちょうきょう)のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲(うんのう)はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇畜生(しんこしくさん)なり。なにといふ魔儻(まとう)の、わが仏如来の道(どう)にまじはりけがさんと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十四

岩波文庫105ページ「しるべし、この疎怠(そたい)は癈(はい)せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得(どうて)を、一生いはずしてやみぬるもあり」 知らなければいけない。このように仏道と疎遠でそれで平気で怠けているのは、頭がどうか…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十三

岩波文庫105ページ「おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解(けんげ)することさめざるによりて、有仏性(うぶっしょう)の道(どう)にも、無仏性の道(どう)にも、通達の端(たん)を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり」 仏性を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十二

岩波文庫104、105ページ「ゆゑに光老(こうろう、大光和尚)にとはず。恁麼(いんも)道取すれども、桂兄(けいひん、成桂知客)も会(うい)すべからず。聞説(もんせつ)する皮袋(ひたい)も道取せるなし。前後の粥飯頭(しゅくはんじゅう)みるにあやし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十一

岩波文庫104ページ「すなはち知客と予と、謝利殿(しゃりでん)および六殊勝地(ろくしゅしょうち、山内の名所)にいたるあひだ、数番挙揚(すばんこよう)すれども、疑著(ぎじゃ)するにもおよばず。おのづから下語(あぎょ)する僧侶も、おほく都不是(と…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九

岩波文庫103ページ「円を学するに一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅(いちまいひん)に相似(しょうす)することなかれ。身相円月身なり、形如満月形なり。一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし」 円とは何かを学ぼうというときに、円い貨幣のようなもの…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八

岩波文庫103ページ「これを急著眼看(きゅうじゃげんかん)せん、たれか直至如今飽不飢(じきしにょこんほうふき)ならん。月は円形(えんぎょう)なり、円は身現なり」 現実というものをしっかり自分の目なければいけない。そうしなければ、誰が今この瞬間…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十

岩波文庫103、104ページ「予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる。嘉定十六年癸未(きび)秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺(あいくおうざんこうりぜんじ)にいたる。西廊の壁間(へきかん)に、西天東地(さいてんとうち)三十三祖の変相(へんそう)を画…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七

岩波文庫102、103ページ「円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし。しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、「以表」を体せず、「説法」を図せず、いたづらに画餅(わひん)一枚を図す、用作什麼(よう…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六

岩波文庫102ページ「この画(が)いまだ月相(がっそう)ならざるには、形如なし、説法せず、声色(しょうしき)なし、用辯(ようべん)なきなり。もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆゑに」 坐禅…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五

岩波文庫102ページ「しるべし、身現円月相の相を画(が)せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目(ようみしゅんもく)それ端直(たんじき)なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐(ごつざ)するべきなり。破顔微笑(はがんみしょう)つたはるべし。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三

岩波文庫101ページ「すでに数百歳(すはくさい)の霜華(そうか)も開落して、人眼(にんげん)の金屑(きんせつ)をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、万事の蹉跎(さた)たることかくのごときなる。もし身現円月相は一輪相なりと会取…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二

岩波文庫101ページ「大宋国むかしよりこの因縁を画(が)せんとするに、身に画(が)し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡(にょきょう)なる一輪相を図(ず)して、いま龍樹の身現円月相とせり」 偉大な…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四

岩波文庫102ページ「かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道(どう)を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。円月(えんがつ)にくらし、満月(まんがつ)に虧闕(きけつ)せり。これ稽古(けい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百一

岩波文庫101ページ「しかあるに、龍樹、提婆師資(しし)よりのち、三国の諸方にある前代後代(ぜんだいこうだい)、まゝに仏学する人物、いまだ龍樹、提婆のごとく道取せず。いくばくかの経師論師(きょうじろんじ)等か、仏祖の道(どう)を蹉過(さこ)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百

岩波文庫101ページ「一切(いっさい)の功徳(くどく)、この功徳なり。仏功徳はこの身現の究尽(きゅうじん)し、嚢括(のうかつ)するなり。一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり」 一切の仏というものの本質(功徳)は、この姿を現すという…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十九

岩波文庫100ページ「四大五蘊(しだいごうん)と道取し会取(ういしゅ)する仏量祖量も、かへりて身現の造次(ぞうじ)なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり」 四大というのは、地、水、火、風(ち、すい、か、ふう)のことで、この世界…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十八

岩波文庫100ページ「しかあれば、「身現」の説仏性なる、「虚明」なり、「廓然」なり。説仏性の「身現」なる、「以表諸仏体」なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり」 そういうこと(現実の肉体、姿を現すこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十七

岩波文庫100ページ「祖師のをしむにあらざれども、眼耳(げんに)ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別(りょうべつ)することあたはざるなり。無相三昧の形如満月(ぎょうにょまんげつ)なるを望見(もうけん)し礼拝(らい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十六

岩波文庫99、100ページ「いま天上人間(てんじょうじんかん)、大千法界(だいせんほうかい)に流布(るふ)せる仏法を見聞せる前後の皮袋(ひたい)、たれか道取(どうしゅ)せる「身現相は仏性なり」と。大千界にはたゞ提婆尊者のみ道取せるなり。余者(よ…