正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十八

 岩波文庫106ページ「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者(うしんしゃ)みな衆生なり、心是衆生(しんぜしゅじょう)なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし。衆生是心(しゅじょうぜしん)なるがゆゑに」
 仏道でいう一切衆生とは、「心」を持っているものはすべて衆生である、「心」とは衆生であるからである。そして「心」がないと言われているものもおなじく衆生である。衆生とは「心」であるからである。
 ここに出てくる「心」とは何か、私には、こうだ!と言えるだけの力はない。そうは言っても、私なりに考えてみる。一切衆生=悉有(すべての存在)=仏性であるならば、「心」という人間の言葉は関係ない、と理解してよいのではないかと思っている。「心」という言葉を使うなら、すべてのものは「心」といえる。
 この世の存在、大宇宙の中の存在は、心が有るとか無いとか関係ない。すべてが同じ「存在」。
 そう考えれば、仏教は徹底的な平等の思想だ。大きな寺の偉い坊さんなんてものは、寺という村社会の決め事で、仏教とは関係ないんじゃないかな?お坊さん方、怒らないでね。素人に怒っちゃ駄目ですよ。
 よく「無心」というけど、一生懸命に行動しているときは無心だと思う。受験勉強だって、会社の資料作りだって、一生懸命取り組んでいるときは無心だと思う。
 何も思わない、無念無想なんてのは、観念的な産物に過ぎない。人間、そんなことにならなくていいし、大体なってどうする?世の中、そんなことで過ごせるほど甘くはないと思うけどね。
 繰り返し書いているけど、仏教は特殊な状態を目指すものではない。普通の状態になることが目的。ただ、頭の中の知識や利得や見栄だとか余計な夾雑物のために、「普通」が何か分からなくなってしまっている。だから、坐禅が必要なのだ。
 ただし、「普通」になったときの言動は、時にはニヒリズムに見えたり(世の中一般を否定せざるを得なかったりすることもあるので)、あるいは「当たり前のことしか言わない」と怒られたりする。普通のこと・当たり前のことが分からなくなって妙なことをしている人たちに怒られる。不思議なことだけど、当然と言えば当然なのだと思っている。
 私は坐禅していきます。