2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十一

岩波文庫84ページ「五祖いはく、「是仏性(ぜぶっしょう)」。いはくの宗旨(そうし)は、是(ぜ)は仏性なりとなり。何(か)のゆゑに仏なるなり。是(ぜ)は何姓のみに究取(きゅうしゅ)しきたらんや、是すでに不是のとき仏姓(ぶっしょう)なり」 五祖が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十

岩波文庫83、84ページ「「四祖いはく是何姓」は、何(か)は是なり、是を何(か)しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也(ぜや)、何也(かや)なり。これを蒿湯(こうとう)にも点(てん)ず、茶湯にも…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十九

岩波文庫83ページ「五祖いはく、「姓即有(しょうそくう)、不是常姓(ふぜじょうしょう)」いはゆるは、有即姓(うそくしょう)は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり」 五祖が「姓即有、不是常姓」とおっしゃったことについて道元禅師が説いておられらる。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十八

岩波文庫83ページ。前回の四祖と五祖の話を受けて、道元禅師が説かれている。 「しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何姓(にょかしょう)」はその宗旨(そうし)あり。むかしは何国人(かこくじん)の人(じん)あり、何姓(かしょ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十七

岩波文庫81~83ページは四祖と五祖にまつわること(伝説?)が書かれている。 私なりの概略を書いてみる。 菩提達磨を中国(震旦)の初祖として、五祖となる大満弘忍(だいまんこうにん)禅師は、子どもの頃にして道を得ていたが、松の木を植える職人として…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 その三十六

岩波文庫80ページ「しかあれば、六神通は明々百草頭数(めいめいはくそうとう)、明々仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累(たいるい)せしむといへども、仏性海(ぶっしょうかい)の朝宗(ちょうそう)に罣礙(けいげ)するものなり」 (毎日毎日…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十五

岩波文庫80ページ「六神通(ろくじんづう)はたゞ阿笈摩教(あぎゅうまきょう)にいふ六神通にあらず。六といふは、前三々後三々(ぜんさんざんごさんざん)を六神通ハラ蜜といふ。」 阿笈摩教というのは阿含経(あごんきょう)のことだそうだ。比較的古い経…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十四

岩波文庫80ページ「三昧六通由茲発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)。しるべし、緒三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり」 坐禅(修行)による境地、六神通と言われていている力も仏性から現れる。ここで知っ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十三

岩波文庫80ページ「恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり。仏性をみるは驢腮馬觜(ろさいめし)をみるなり。「皆依」は全依(ぜんえ)なり、依全(えぜん)なりと会取(ういしゅ)し、不会取(ふういしゅ)するなり」 そのようなことであるから、山や川を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十二

岩波文庫80ページ「すでに「皆依建立」といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間(ないげちゅうげん)にかゝはるべきにあらず。」 仏性によってすべてが建立されている、すべてのものは仏性である。仏性海はどんな形かと言えば、すべ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十一

岩波文庫79、80ページ「第十二祖馬鳴尊者(めみょうそんじゃ)、十三祖のために仏性海(ぶっしょうかい)をとくにいはく「山河大地皆依建立(せんがだいちかいえこんりゅう)、三昧六通由茲発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)」しかあれば、この山河大…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十

岩波文庫79ページ「しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰(ごりじしょう)なり。おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。」 現実にこの世界は存在しているのだから、仏性も…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十九

岩波文庫79ページ「しるべし、「時節若至」は、十二時中不空過(じゅうにじちゅうふくうか)なり。「若至」は「既至」といはんがごとし。時節若至(じせつにゃくし)すれば仏性不至(ぶっしょうふし)なり」 「時節若至」というのは、毎日を虚しく、無駄に過…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十八

岩波文庫79ページ「「時節若至」といふは、「すでに時節至れり、何の疑著(ぎじゃ)すべきところかあらん」となり。疑著時節さもあらばあらばあれ、還我仏性来(げんがぶっしょうらい)なり」 「時節がもし至れば」と言っているけれども、時節は今のこの瞬間…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十七

岩波文庫78、79ページ「いはゆる「欲知仏性義」は、たとへば「当知仏性義」といふなり。「当観時節因縁」といふは、「当知時節因縁」といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり」 仏というとは何かを知ろうと思っら、それはま…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十六

岩波文庫78ページ「時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取(いんもけんしゅ)して、いたづらに紅塵(こうじん)にかへり、むなしく雲漢(うんかん)をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道(てんね…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十五

岩波文庫78ページ「「時節若至(じせつにゃくし)」の道(どう)を古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後(きょうこう)にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然(じねん)に仏性現前の時節にあふ」 ここに…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十四

岩波文庫78ページ「時節因縁聻(じせついんねんにい)なり、超越因縁(ちょうおついんねん)なり、脱体仏性(とったいぶっしょう)なり。仏々聻(ぶつぶつにい)なり、性々聻(しょうしょうにい)なり」 水野氏の脚注によると「聻(にい)」とは「それだけ」…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十三

岩波文庫78ページ「「当観」といふは、能観、所観にかゝはれず、正観、邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり」 「当観時節因縁」の「当観」についての解説。能観とは主体として観る、所観とは客体として観られる…