正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十九

 岩波文庫83ページ「五祖いはく、「姓即有(しょうそくう)、不是常姓(ふぜじょうしょう)」いはゆるは、有即姓(うそくしょう)は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり」
 五祖が「姓即有、不是常姓」とおっしゃったことについて道元禅師が説いておられらる。
 有つまり存在そのものとしての姓は普通に使っている名前のことではない。普通に使っている名前は、存在そのものとは違うもの。
 ここもレッテルと存在そのものとは違うということが書かれていると思っている。
 四祖と五祖の会話は、普通に読むと、仏性があるとか無いとか、無とか空とかの言葉をあれこれ頭の中の観念でいじくり回すことになるが、道元禅師は、本質とは何かの問題としておられる。
 「即有」「常姓」「不是」の関係を色々な角度から説いておられる。読み下し文で読むと、日本語に転換してしまうので、わからなくなる。仏教の世界のこととして理解する必要がある。
 話は変わるが、差別はいけない。当たり前のこと。男女差別を無くす。それも当然。ここで、法律が出てくる。罰則規定も設けるべき、強化すべきという。現在の状況からすると仕方ないのかもしれない。
 しかし、根源は「何故差別が起きるのか」だろうと思う。色々な人たちが色々意見を言っている。それは大事なことだ。このプロセスは不可避、不可欠だろう。
 ただ私は、本来人間は差別などしないものだと思っている。坐禅の心身では「差別」ということは起こりようがないと思っている。楽天的過ぎる、現実を知らないと言われるだろう。だけど、疑いなく信じている。
 「そんなこと言っても寺は女人禁制とかにしているではないか」という人もいるだろう。私は、僧侶でもないし、学者でもないので、あくまでも個人的意見だけど、女人禁制にしているのは、寺の運営上のことではないかと思う。いくら仏道に発心して、戒律を守ろうとしても、若い男女が同じ空間に居れば、ややこしい、仏道とは関係ない規制をかけなければならなくなってしまうからではないかな。
 道元禅師も「男女は関係ない。問題は真理を得ようとしているか否かだ」とおっしゃっている。
 ただ、日本は、男尊女卑の強く残っている社会であることは事実だ。これを是正するのに、当面法制度の中でやっていくしかないだろう。
 でも、併せて、坐禅の心身を皆が得て欲しいと思う。それが、完全な解だと信じている。
 私は、何回も書いたが、対人恐怖気味で、人間の集団の中にいるのは苦痛な人間だ。そんな私が感じるのは男だろうが女だろうが、下らん奴は下らん。人間としてまともかどうかが問題で男女の別などない。それは坐禅して感じているのだから、間違っていない。そう思っている。