正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十八

 岩波文庫83ページ。前回の四祖と五祖の話を受けて、道元禅師が説かれている。
 「しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何姓(にょかしょう)」はその宗旨(そうし)あり。むかしは何国人(かこくじん)の人(じん)あり、何姓(かしょう)の姓(しょう)あり。なんぢは何姓(かしょう)と為説(いせつ)するなり。たとへば吾亦如是(ごやくにょぜ)、汝亦如是(にょやくにょぜ)と道取(どうしゅ)するがごとし。」
 四祖の言っておられることを考えてみると「汝何姓」は重要な意味がある。かつて、どこの国の人間だと問われ、「何国人」と答えた人がいた。何という名だと問われ、「何姓」と答えた人がいた。
 ここは、どこの国とかどんな名前だとか、そのようなうわべだけの、澤木氏や西嶋氏がいうレッテルには意味がない。だから、何とは言えないけれど現実の存在だということだと思っている。
 だから「お前さんは何とは決めつけられない何かだ」と説いてあげているのだ。
 次の「吾亦如是」「汝亦如是」は六祖大鑑慧能(だいかんえのう)禅師と南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師の対話を引いておられる。南嶽懐譲禅師が「修証(しゅしょう)はすなはちなきにあらず、染汚(ぜんわ、ぜんな)することはえじ」(仏道を勉強したり経験することはないということはない。ただそれを汚すことはできない=絶対の事実)とおっしゃったことに対し、六祖が「私とお前は同じだ」とおっしゃったというところから引用されている。
 私なりには、人間というのを何々と決めつけることはできない。人間に限らずすべてのものは「こうだ!」と決めつける、レッテルを貼ることはできない。レッテルとかと全く無関係に現実に厳然と存在している。
 だから「お前さんは何とは決めつけられない何かだ」とおっしゃったというのは、私とお前は同じだ「吾亦如是」「汝亦如是」とおっしゃったのと同じだ、ということなのだろうと思う。
 世の中はレッテルが大好きですよね。○○大学卒、○○会社の役員、官僚、政治家等々。けど、現実にやっていることがろくでもないことなら、下らない、愚かな人間としか言えない。レッテルを得ることと、まともな人間になることは、違う。レッテル得ることに夢中で、下らない人間になることにまっしぐら、という人たちはたくさんいる。
 まあ現実には、例えば会社で新人を採用するときに、まともな人間かどうか見極めるのは難しい。採用する側の人間が下らない人間であることもけっこうあるだろうし。となるとレッテル重視になるんだろうね。
新人の配属部署から「何だあいつは!全然駄目じゃないか!」と言われたとき、人事部は「でも○○大学出てるんですけどねぇ」と言えば、ある程度言い訳になるし。
 今は、転職とか流動化が進んでいるし、その意味では、本人も組織もいいことなんじゃないかと思うけど。
 結局、行着くところは、「何のために生きているのか」であって、それは坐禅正法眼蔵が教えてくれる。