正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十六

 岩波文庫85ページ「しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅(おうばい)に見聞(けんもん)し、趙州(じょうしゅう)に流通(るづう)し、大潙(だいい)に挙揚(こよう)す。無仏性の道、かならず精進すべし、赼趄(しそ)することなかれ」
 (前回を受けて)ということであるからすなわち、無仏教という言葉、言葉では言い表せない何かは、四祖の教えから伝わって来るものである。黄梅は大満弘忍禅師がおられた山だそうで、大満禅師のこと、大満禅師が見たり聞いたりし、趙州禅師に伝わり、大潙禅師も使っている。無仏性という言葉、言葉では言い表せない何かについて、一生懸命勉強すべきだし、進むことなく滞ってはいけない、そこでうろうろしてはいけない。
 行動しなければいけない、行動しなければ何も変わらない、と力説する人がいる。それはそれでわかる。
 しかし、往々にして、その行動は独りよがり、自己陶酔でしかないことも多いように感じる。
 坐禅するというのは偉大な行動なのだ。何故なら大宇宙と一体となり、本来の面目にたち還るのだから、これを偉大と言わずして何を偉大というのか。坐禅した心身によって行う行動は正しい。
 私は行動を否定しているのではない。仏教は行動を重視する宗教だ。西嶋氏の四諦論(したいろん)の解釈によれば(私は正しいと確信している)、苦集滅道の滅とは行動のこと。人間の価値、人生の意味は、今この瞬間何をするかで決まる。
 ただし、坐禅していないと、おかしなことをしてしまう。何をすればよいのかの判断ができない。だから坐禅が必要なのだ。
 マスクがないとおろおろし、トイレットペーパーごときであたふたする。もちろん、病院とか必要な所に供給されないのは駄目だ。それは政治、行政の責任だ。けど、政治、行政に携わる人たちが坐禅してないと、この魑魅魍魎が跋扈している、一筋縄ではいかない世の中を相手にできないと思うけどね。
 国会など見てると、野党は一生懸命政府を批判している。これは必要なことだ。けど、野党が政権を取ったら、きちんと行動できると思える材料がないのが、誠に残念です。どうしても、口先だけなら誰でも言えるレベルのことしか言ってない、としか見えない。いやいや、本当は実行力もあるのだろう。政治家という権力者を批判すると、ひどい意地悪されるから気をつけないとね。