正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十三

 岩波文庫84ページ「四祖いはく、「汝無仏性」。いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭(ぶっちょう)にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか」
 四祖の「汝無仏性」という言葉は、「お前はこういう人間だ」などと言えない、言葉では言い表せない何ものかということであり、自分のあり方は自分自身で始末するしかなく、そのあり方は仏性という言葉では言い表せない何かであるとおっしゃっているのだ。知らなければならない、学ばなければならない、今はどういう時であるから、無仏性と四祖は言われたのだろうか。仏になるという状態(仏頭)に五祖があったから無仏性なのか、仏として常に向上しようとしているから無仏性なのか。
 「無仏性」は仏性が無いということではなく、仏性とか言葉では言い表せない何ものかということ。
 言葉で表現しなければ伝わらない。だから道元禅師も正法眼蔵をお書きになった。しかし、どこまで行っても大宇宙の真理は言葉では言い表せない何か、としか言いようがない。
 そして、生きるときには、言葉では言い表せない何ものかである大宇宙の真理に従って生きていくと私は思っている。人間が生きるのは、言葉で単純に言えるものじゃないと思う。今は言葉沢山の時代というか、言葉が溢れている。耳障りの良い言葉を使っている。使いすぎと思うけど。わーわーしゃべる人が評価されたり、目立っている。そういうものを聞いたり、読んだりすることは悪いことではないだろう。しかし、「自分が自分を自分で自分する」しかないのだ。
 政府は「定年を迎えても若くて、元気な人が多い。明るく楽しく、皆さんの経験で社会に貢献。充実した人生を送りましょう」なんて言ってるけど、要は財政の問題なのでしょう?そう言ったら身も蓋もないので綺麗な言葉を使っているが、上っ面の見せ方なんてどうでもいいじゃないか、と私は思う。
 個人的には「ほっといてくれ」というのが本音。金がなくなって生活ができなくなれば、そして体が不自由になれば、糞まみれで飢えて死にますよ。後始末する人には悪いけどね。
 組織はやはり新陳代謝が必要だ。有能で精力に溢れている高齢者(定年延長した人)は、若い人には煙たい存在じゃないか?大体こういう奴は威張るし、人を見下しがちだ。無能でやる気も無いけど、組織が定年延長を拒否するほどの悪いことはしてない奴は雇わざるを得ない。組織としては迷惑そのもの。中には、無能なのに自分では有能だと勘違いして、あれこれでしゃばるという、どうしようもない奴もいるしね。
 繰り返し言うしかないけど、人間は何のために生きているのだ?この国は、世界は、地球はどこに行こうとしているのだ?
 そこが分からず、目の前のことであたふた、おろおろしてもしょうがないと思いますが。
 だから、坐禅が必要なのです。