正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十四

 岩波文庫84、85ページ「七通を逼塞(ひっそく)することなかれ、八達を摸サク(ぼさく サクは手偏に検索の索)することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習しゅじゅう)することもあり。」
 そもそも仏性=悉有、世界のすべての存在は制限されることなく、色々なことに通じていて、七通とか八達という状態なのに、頭の中で観念的に考えて七通をふさいでしまったり、もう既にその状態にあるのに探し回るようなことをしてはいけない。言葉では言い表せない何かという大宇宙の真理の状態は、坐禅によって三昧の境地に入ることだと学ぶこともあるだろう。
 坐禅によって頭の中の観念をふるい落とし、これまでの慣習、固定観念をふるい落とし、言葉では言い表せない何かである大宇宙の真理に従って生きるしかない。おろおろあたふたするな、ということだと思っている。
 情報化社会だという。でも、情報を得てどうする?その情報を自分が生きる上で、どう扱うのか。情報の渦の中で溺れることになりはしないか。
 最近もトイレットペーパーが無くなるというデマで大騒ぎになった。大儲けした奴がいるだろうね。マスクだってそうだ。市中に全くない。儲けようとしてる奴がいるだろうね。人の苦境や不安につけこむことは悪事だ。因果の法則により、必ず悪事を働いた人間には悪い結果がもたらされる。これは絶対的な真実。悪いことをすれば悪いことが訪れる。当たり前のこと。それはすぐに現れ無いかもしれない、そいつの子供に現れるかもしれない。しかし、絶対に現れる。原因があれば結果がある。これは科学だ。
 情報統制は絶対にだめだ。だから、受け止める方がきちんとするしかない。大体、トイレットペーパーが無くても死にはしない。昔のぼっとん便所の頃は新聞紙で拭いていたんだ。そのために死んだ奴などいないだろう。今は水洗トイレだから新聞紙は流せないだろうが、水で洗ってタオルで拭きゃいい。トイレットペーパーは生きていく上での重大事じゃない。そんなことで貴重な限りある人生の時間を費やすなんて、下らなさすぎる。
 コロナウイルスも人に感染させないよう最大限の努力はしなければいけない。しかし、感染してしまったらしょうがないじゃないか。「死も一時の位なり」ぎゃあぎゃあ騒ぐなんて、みっともない。
 以上はわたしの立場を書いているので、そうしたくないという人は自分の意思で生きてください。人間、どう生きてもいい、その自由はあるのだから。
 ただ、私も含めて自分のしたことは自分で始末するしかない。他人のせいにしたがる人が多すぎるとは思う。
 坐禅して、本来の面目、大宇宙の真理に従って普通に生きましょう。