正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十ニ

 岩波文庫84ページ「しかあればすなはち是(ぜ)は何(か)なり、仏(ぶつ)なりといへども、脱落しきたり、透脱(とうとつ)しきたるに、かならず姓(しょう)なり。その姓すなはち周(しゅう)なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏(もし)に相似(そうじ)ならず、傍観に斉肩(せいけん)ならんや」
 (前回を受けて)ということであるから、現実の絶対的存在、本質「是」は言葉では言い表せない何か「何」なのであり、「仏」とも言うが、そんな仏というような言葉など抜け落ちてしまっているし、抜け出してしまっている、そして何らかの名前がついている。その名前は、(ここで引用されたエピソードでは五祖は周家の娘から産まれたことになっているので)、ここでは周であったのだ。周という名前ではあったけれど、父親から受けたものではなく、祖師から受けたものでもなく、母親からのものでもない。そして傍観している人、第三者とは関係ない、その人はその人でしかない。
 大宇宙の真理は、絶対の存在だけれど言葉では言い表せない。道元禅師は、その言葉では言い表せないことを、何とか伝えようと正法眼蔵をお書きになられた。偉大な方としか言いようがないと思っている。
 科学は色々なものを明らかにしてきた。これからも、そうだろう。だけど、究極的にはどこまで行っても、言葉では言い表せない何かを追求し続けるのではないかと思う。
 コロナウイルスで大騒ぎだけど、何故新しいウイルスが今流行するのだろう。それはわからないんじゃないか。
 医学も進歩して、昔なら命を落とした病気が治るのも事実。ただ、私は定期的診察をしなければならない体で、医師の方々はとても良くしていただいている。それでも、結局のところ対症療法で、根源を絶つとはいかないようだ。最後は自身の生命力ということなのだろう。
 医学は進歩して、苦しみから人を解放してもらいたい。けれど、常に言葉では言い表せない何かを追求し続けることなのではないだろうか。
 人間が毎日生きているのだって、瞬間瞬間ひたすら生きているので、その瞬間では何故生きているのかなんて考えられないし、それは言葉では言い表せない何かなのではないだろうか。
 私は大宇宙の真理という言葉を使っているけど、それは何かは、坐禅で感得されるもので、言葉では言い表せない何か。
 夢や希望を持って生きることは良いことだと思うけど、人生そんなに単純ではない。夢を持って生きましょうとか言うのが好きな人が多いように思うけど、そのために、「夢を持たねば!」と焦ったり、不安になったりして、つらくなってしまう人も多いんじゃないかな。
 坐禅していると、瞬間瞬間を生きていくのでいいのだ、それしかないと感じる。坐禅を「安楽の法門」と言うが、そのとおりだと思う。