正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十

 岩波文庫83、84ページ「「四祖いはく是何姓」は、何(か)は是なり、是を何(か)しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也(ぜや)、何也(かや)なり。これを蒿湯(こうとう)にも点(てん)ず、茶湯にも点ず、家常(かじょう)の茶飯(さはん)ともするなり」
 四祖の「是何姓」とは、「何」つまり人間の言葉では表現できないけれど存在している何かは、=「是」現実に存在する具体的なものということ。現実に存在する絶対的なもの「是」は、言葉では言い表せない「何」というしかない。それをここでは「姓」と表現している。言葉では言い表せない何かというのは、現実の絶対的存在があるからこそ「何」と言える。現実の絶対的存在というのは、言葉で言い表せない「何」というものによって、何とか表現できるようになる(ほかに表現しようがない)。そうしてみれば名前というのは、具体的、絶対的な存在であると同時に、言葉では言い表せない何か、でもある。そして、このことは、頭の中の観念的なものではなく、よもぎのお茶だとか普通のお茶だとか、日常生活そのものを表している。つまり名前、レッテルではなく具体的、絶対的なもの、人間、大宇宙の本質を表している。そしてそのことは、毎日の普通の生活そのものなのだ。
 仏教は、普通の人の日常生活の中にある。決して、超人的な、とてつもない苦行の末にあるものではない。
 日常生活を普通に過ごすことが仏教、仏道
 YouTuberとかいう人たちが増えていて、中には大いに儲けている人もいるそうな。まあ、人間どう生きてもいいし、やりたいことをやればいい。お金儲けられるということは、それを欲している人たちがいるということだから、それでいい。
 ただ私は、人に知られようとは思わないし、目立ちたくない。自分の信ずるところを、毎日瞬間瞬間積み重ねていくだけ。もちろん社会との関わりなしに生きられないし、社会に生きている以上社会がより良いものになって欲しいと願う。私にとってのその方法は、自分自身が普通に生きること。組織の中で働いているが、組織としておかしいと思えば、状況をよく把握した上で、「おかしい」と言っている。それは私にとって、普通のこと。そのことで、偉くなりたいとは思わないし、評価されようがされまいが、どうでもよい。嫌がられることの方が多いけどね。
 「普通」というのは、こういうことだと決めつけることはできない。言葉では言い表せない何か「何」であり、「是」だと思っている。
 このブログは、私が30年近く正法眼蔵を読み、坐禅してきたことを、遺書として残したいと思って書いている。数少ないけど、読んでくださっている方もいらっしゃるようで、それはとても嬉しい。ありがとうございます。ただ、私は遺書として書き残すためにしか書けないので、ご理解下さい。