正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十八

 岩波文庫118ページ「仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼なるべし」
 恁麼(いんも)は「何か」「そのようなもの」ということらしい。私なりには、西嶋氏の「言葉では言い表せない何か」ということだと思っている。(西嶋氏の主張をちゃんと理解してないかもしれないけど)
 そのように考えると、ここのところは、仏性がもし自らのことを称して「無」というならば、それは言葉では言い表せない何かであるし、もし犬が自らのことを称して「無」というなら、それも言葉では言い表せない何かなのである、ということになるように思う。
 現実は有るとか無いとかを超越している。現実を目の前にして有るとか無いとか言ってる暇はない。
 厳然として存在する現実は大宇宙なのであり、それにどう対応してよいかは、言葉では言い表せない何かであるが絶対的に存在する大宇宙の真理に従うしかない。
 あれこれ、人間の貧弱な脳味噌や小手先の言論、その場凌ぎのやりくりに頼っても、結局、真理に従った結果にしかならないと思っている。
 今の世の中、そんなことばかりに見えるのは、私はがおかしいんですかね。