正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十七

 岩波文庫118ページ「趙州いはく、「無」。この道(どう)をきゝて、習学(しゅうがく)すべき方路(ほうろ)あり」
 趙州禅師は「無」と言った。この言葉を聞いて、学ぶ方法、方向がある。
 仏教で、「無」という言葉がよく出てくる。ここでは、表面的には、犬に仏性が有るか無いかに対し、「無」と答えたように見えるが、道元禅師は習学すべき方路あり、とされている。単純に有るとか無いとかいう話ではない。
 坐禅しても人間は「無」になんかなれないから呼吸を数えているという人がいた。これを数息観(すそくかん)というらしい。これは気持ちを整え、落ち着かせるための方法とされているようだ。
 しかし、道元禅師は坐禅において数息観を扱われていない。呼吸は、長い息は長く、短い息は短くとおっしゃっているだけだ。要は自然に任せるということだと思う。坐禅していても体の状態は変わるのだ。呼吸を数えているのでは、坐禅ではなく、呼吸を数えることをしていることになり、それは坐禅ではない。私はそう思う。
 無を何にも考えない状態としたら、人間そんなことにはならない。だから目指す必要はない。色々思い浮かぶものを放っておけばいいだけのこと。道元禅師のおっしゃるように頭に浮かぶものに振り回されなければいいだけのこと。私は「無の境地」なんて訳のわからんことを言う怪しい人には近づかないようにしている。
 「無」については次回、道元禅師が解説されることになる。