2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十四

岩波文庫128ページ「あるいは汝得吾髄(にょとくごずい)あり、三拝依位而立(さんぱいえいにりう)あり」 達磨大師から太祖慧可禅師に法が伝わったときというのは、太祖慧可禅師が達磨大師に釈尊の教えについてたずねたときに達磨大師が黙っていたことに対し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十三

岩波文庫128ページ「あるいは金襴衣(きんらんえ)を正伝し、金襴衣を稟受(ひんじゅ)す」 金襴衣というのは、釈尊が摩訶迦葉尊者を法を継いだ者として認めて送った袈裟のことだそうだ。金襴衣の受渡しを通じて仏道が伝わる、学ばれていく。 形式を軽んずる人…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十二

岩波文庫128ページ「このとき、思量して学道す、不思量して学道す」 学道するとき、色々考えながら学ぶときもあれば、考えることをせずに学ぶこともある。 私は、「思量して学道」=正法眼蔵を読むこと、「不思量して学道」=坐禅だと思っている。ただ、不思量…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十一

岩波文庫128ページ「これらの心(しん)を放下(ほうげ)して学道するあり、拈挙(ねんこ)して学道するあり」 (前回、発菩提心とか赤心、古仏心などいろいろ示したが)これらの心を手放してしまって、意識せずに仏道を学ぶことがあるし、それらの心を取り上げて、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十

岩波文庫128ページ「発菩提心なり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心(びょうじょうしん)なり、三界一心なり」 仏祖の法をならうことが、発菩提心であり、赤心とは真実の心、ありのままの素直な心それらが瞬間瞬間片々として現れており、それが昔から仏と言…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その九

岩波文庫128ページ「たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし」 たとえ、まだ真に真理・真実を知りたい、大宇宙の真理を知りたいという心が起こらないということであっても、過去において菩提心をおこさ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八

行李(あんり)とは、行動、日常生活の瞬間瞬間の行動。西嶋和夫氏が書いておられるとおりだと私は思っていて、人間は「理想、観念」だけでは生きられないし、かといって「唯物論的に結局は物質だ」としてしまえば殺伐としてしまう。理想(主観)も物質(客観)も…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七

前回の続き。菩提心、発菩提心について、私の思うところを書いてみたい。 菩提心というのは、大宇宙の真理を知りたい、真実を知りたいという心だと思っている。 このブログの最初の方で書いたけど、仕事上で私には「絶対に間違っている」としか思えないこと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六

岩波文庫128ページ「又、感応道交(かんのうどうこう)して、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道(だいどう)に帰依(きえ)し、発菩提心(ほつぼだいしん)の行李(あんり)を習学するなり」 また、大宇宙と一体となって(坐禅して)、大宇宙の真理、真実を知りたいとい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五

岩波文庫128ページ「心(しん)をもて学するとは、あらゆる諸心をもてするなり。その諸心といふは、質多心(しったしん)・汗栗駄心(かりだしん)・矣栗駄心(いりだしん)等なり」 心で仏道を学ぶとは、あらゆるすべての心でもって学ぶのである。その心とは、(以下…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四

岩波文庫127ページ「仏道を学するに、しばらくふたつあり。いはゆる心(しん)をもて学し、身(しん)をもて学するなり」 仏道を学ぶのにはとりあえず二つの方法がある。心で学び、体で学ぶのである。 心身一如(しんじんいちにょ)つまり心と体は一つのもので切…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三

岩波文庫127ページ「仏道を学せざれば、すなはち外道(げどう)・闡提(せんだい)の道(どう)に堕在す。このゆゑに、前仏後仏かならず仏道を修行するなり」 仏道を学ばなければ、そのまますぐに仏教以外の教えに迷いこみ、真実から遠い世界に堕ちてしまう。その…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二

岩波文庫127ページ「南嶽大慧(なんがくだいえ)禅師のいはく、「修証(しゅしょう)はなきにあらず、汚染(わぜん)することえじ」 南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師(六祖大鑑慧能禅師の法を継いだ方)がおっしゃったこととして「修行とその結果としての経験は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その一

岩波文庫127ページから、心身学道(しんじんがくどう)の巻に入る。仏道、仏教は心と身体が一体となって学ばねばならないということだと思っている。そして、心も身体も大宇宙と一体、大宇宙そのものになっていなければいけない。それは坐禅によって可能にな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十四

前回までで仏性の巻は終わり。道元禅師は問答や祖師の方たちの言動を取り上げて、色々な角度から仏性を解説されている。 繰り返しになるけど、仏性は神秘的なものではなく、いわゆる「霊的」なものなんかでもない。 全ての現実の存在、人間が生きていること…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十三

岩波文庫126ページ「向上に道取するとき、作麼生(そもさん)ならんかこれ仏性。還委悉麼(かんいしちま)。三頭八臂(さんとうはっぴ)」 常に修行を続けているなかで言うとして、一体どういうことであるのか仏性とは。わかっているだろうか。頭が3つで腕が8本…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十二

岩波文庫125ページ「さらに仏性をを道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)なり」 仏性とは何かを言うならば、自分が泥まみれ、ずぶ濡れになってもがいているのであってもなくても、現実の目の前の垣根や壁や瓦や小石が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十一

岩波文庫125ページ「無始劫来(むしこうらい)は、癡人(ちにん)おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人(しょうしゃじん)なり」 始めも知れぬ遠い昔から、多くの愚かな人たちは精神的な働き、意識を仏性だとし、本来の人間のあり方としてきたの…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十

岩波文庫125ページ「しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性(しょうふしょう)なるべきと邪執(じゃしゅう)するは、外道(げどう)なり」 (仏性の有無を頭の中で抽象的・観念的につべこべ言うのは意味がないのに)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十九

岩波文庫125ページ「たとひ散のときも仏性有(ぶっしょうう)なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし」 (風火)散のときも仏性は有るとも言えるし、無いとも言える。未散のときも有仏性の状態とも無仏性の状態とも言える…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十八

岩波文庫125ページ「風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散未散なるべし」 (前回のところで、生きる、死ぬということについて、仏性が有るとか無いとか言葉でいじくり回す、抽象的・観念的なことを言うことは意味がないとしている)風火(西嶋氏は「物質…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十七

岩波文庫125ページ「生(しょう)のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」 生きているときもる仏性が有るとすることもできるし、無いとすることもでき。死のときも仏性が有るとすることもできるし、無いとすることもできる。 こ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十六

岩波文庫125ページ「又、仏性は生(しょう)のときのみありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解(しょうもんはくげ)なり」 仏性は生きているときにだけあって、死のときはないと思っているのは、仏教について勉強が足りず、理解が浅薄であるこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十五

岩波文庫125ページ「たとへば一音(いっとん)の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに」 例えば一つの音のすることが仏法、現実のありのままの世界(現実)を説いている、その時がやってきているということ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十四

岩波文庫134、135ページ「風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく」 水野氏の脚注では「風火というほとけが未散という法をとく。風火が自己の正体でほとけ。未散が生きている真実のあり方」「未散という形の自己の正体がある」とされている。 …

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十三

岩波文庫124ページ「未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに未散といふか。しかあらざるなり」 未散と言うのには、どのような理屈、未散ということになったどのようなロジックがあるのだろうか。風火…