正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十四

 岩波文庫128ページ「あるいは汝得吾髄(にょとくごずい)あり、三拝依位而立(さんぱいえいにりう)あり」

 達磨大師から太祖慧可禅師に法が伝わったときというのは、太祖慧可禅師が達磨大師釈尊の教えについてたずねたときに達磨大師が黙っていたことに対し、慧可禅師は三回礼拝し自分の席に戻ってじっと立っていた。そのとき達磨大師が「お前は髄を得た」として法が伝わったということを書いておられる。

 上の話は、坐禅、経典、問答などの修行を通じた上で行われたことと思っている。よく訳のわからない謎々のような問答や奇妙な行動を取ることが仏教だみたいな感じがあるけれど、そんなことでは全くないと私は思っている。

 仏教は普通の人が普通に生きるためのもの、そう信じている。

 出家をすることで、仏教・仏道に専念できるということはあるだろう。だけど、今、寺の経営は大変らしい。観光地で有名な仏像でもあって拝観料が取れるとか、金持ちの檀家がいるとかじゃなきゃ、やってられないとか聞く。寺の経営で修行どころじゃないかもしれない。

 そうすると、堅実に働いている人の方が修行しやすいんじゃないか、と思う。それは日頃の心がけでできることだから。

 一つ付け加えておくと、大宇宙の真理は、言葉では言い表せないというのも事実だ。だから坐禅により体得、受け止めるしかない。でもそれでは、人々に伝わらないから、言葉の限界を知りつつ、何とか伝えようとする。そこに難解さが生まれるのも事実だと思う。道元禅師は本当に苦労されて正法眼蔵を書いてくださったと思っている。