2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十四

岩波文庫153ページ「しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ「上数(じょうしゅ)」は、全「所成(しょじょう)」なり。」 知らなければならない、「永遠の真理・価値(寿命)」というものを、頭の中でこねくり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十三

岩波文庫153ページ「かるがゆゑに「我本行菩薩道(がほうんぎょうぼさつどう)、所成寿命(しょじょうじゅみょう)、今猶未尽(こにゅうみじん)、復倍上数(ふくばいじょうしゅ)」なり」 ここは法華経の寿量品からの引用だそうだ。釈尊がおっしゃったことには…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十二

岩波文庫153ページ「あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子(しゅうじ)となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり」 (法性、大宇宙の真理を頭の中で考えてそれに囚われてしまう=法性の縛をしらな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十一

岩波文庫152、153ページ「教家経師論師(きょうけきょうじろんじ)等の仏道を遠聞(おんもん)せる、なほしいはく、「即於法性(そくをほっしょう)、起法性見(きほっしょうけん)、即是無明(そくぜむみょう)」この教家のいはくは、法性に法性の見(けん)おこるに…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十

岩波文庫152ページ「縛々綿々として樹倒藤枯(じゅとうとうこ)にあらず。いたづらに仏辺の窠窟(かくつ)に活計(かっけ)せるのみなり。法身(ほっしん)のやまふをしらず、報身(ほうじん)の窮(きゅう)をしらず」 頭の中の考えに縛られることが綿々と続き、樹木…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その九

岩波文庫152ページ「菩提をすなはち菩提と見解(けんげ)せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛(むじょうじばく)なり」 自分の頭の中で真実・真理(菩提)を真実・真理だと理解する、信じるのは、普通のこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八

岩波文庫152ページ「一念を経歴(きょうりゃく)するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解(さくげ)す」 一瞬の短い期間を過ごしても頭の中の考えに因えられ、そこから解放される時期を逃し、ただ無駄に誤った考えから抜け出せずにいる。 一つの考…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七

岩波文庫152ページ「「仏縛」といふは、菩提を菩提と知見解会(げえ)する、即知見(そくちけん)、即解会(そくげえ)に即縛るせられぬるなり」 「仏縛」というのは真実・真理(菩提)を頭の中で観念的・抽象的に理解しようとするために、頭の中の世界に縛られ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六

岩波文庫152ページ「行仏にあらざれば、仏縛法縛(ぶつばくほうばく)いまだ解脱(げだつ)せず、仏魔法魔に党類(とうるい)せらるゝなり」 坐禅した身心で大宇宙(仏)と一体となって行動するということでないならば、仏とは何か法とは何かを頭の中で観念的・抽…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五

岩波文庫151,152ページ「この行仏は、頭々(ちょうちょう)に威儀現成(げんじょう)するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄(けきろうせつ)すること、亙時(かんじ)なり、亙方(かんぽう)なり、亙仏(かんぶつ)なり、亙行(かんぎょう)なり」 大宇宙の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四

岩波文庫151ページ「自性仏等、夢也未見在(むやみけんざい)なるところなり」 報仏とか化仏とか自性神仏などといろいろ「仏」と称するものがあるが、それらは坐禅した身心で大宇宙と一体となって行動する「仏」などというものは夢にも見たことが無いだろう(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三

岩波文庫151ページ「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道(どう)行履(あんり)を通達せること、唯(ただ)行仏のみなり」 知らなければならない、仏(大宇宙の真理を体得した)の方々が仏道にあるということについては、「分かった」「理…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二

岩波文庫151ページ「始覚本覚(しかくほんがく)にあらず、性覚無覚(しょうかくむかく)にあらず、如是等仏(にょぜとうぶつ)、たえて行仏に斉肩(せいけん)することうべからず」 いま大宇宙の真理がわかった、もともとわかっていたということではない、本質的に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その一

今回から行仏威儀の巻。ぎょうぶつゐいぎ、と読む。 岩波文庫151ページ「諸仏かならず威儀を行足(ぎょうそく)す、これ行仏なり行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず」 諸仏は必ず尊い姿、威儀がその行動に備わっている。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十二

前回までで即心是仏の巻は終り。 坐禅した瞬間に心=大宇宙の真理=仏=釈迦牟尼仏・釈尊。 現実に生きている中で、瞬間瞬間行動するしかない。その基準が大宇宙の真理であり、それは坐禅することで基準に従った行動ができるようになる。 非常に単純だが、坐…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十一

岩波文庫149ページ「いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」 いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏、釈尊なのである。釈迦牟尼仏とは今…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十

岩波文庫149ページ「しかあるを、長劫(ちょうごう)に修行作仏(さぶつ)するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師をみざるなり」 そういうことであるのに、長い期間修…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十九

岩波文庫149ページ「たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微(いちごくみ)中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫(むりょうこう)に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏(はんけんり)…