2020-12-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十一」

岩波文庫133ページ「「平常心(びょうじょうしん)」といふは、此界他界(しかいたかい)といはず、平常心なり。昔日(せきじつ)はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる。さるときは漫天(まんてん)さり、きたるときは尽地きたる」 「平常心」とは…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十

岩波文庫133ページ「「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。ときに国師いはく「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」。しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、古仏心それ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十九

岩波文庫133ページ「荷葉団々団似鏡、菱角尖々尖似錐≪荷葉団々、団なること鏡に似たり、菱角尖々、尖なること錐に似たり≫。かがみににたりといふとも片々なり、錐(きり)ににたりといふとも片々なり」 荷(はす)の葉はまん丸で鏡のようだ、菱角(菱の実の角(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十八」

岩波文庫132ページ「「赤心片々」といふは、片々なるはみな赤心なり。一片両片にあらず、片々なるなり」 赤心について、水野弥穂子氏は「むきだしの真実」とされ、西嶋和夫氏は「赤裸々な心、真心」とされている。 私はよくわからないが、とにかく赤心つまり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十七」

岩波文庫132ページ「依を転ずるに相似なりといへども、依にしらるゝにあらず。共出一隻手(ぐしゅついしゃくしゅ)なり、自出一隻手なり、異類中行(いるいちゅうぎょう)なり。地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても発菩提心するなり」 (発菩提心の時には)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十六

岩波文庫132ページ「たゞまさに時節とともに発菩提心するなり、依(え)にかゝはれざるがゆゑに。発菩提心の正当恁麼時(しょうとういんもじ)には法界ことごとく発菩提心なり」 ただ、まさに今この時に真実・真理を知りたいという気持ちを起こすのである。そ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十五

岩波文庫132ページ「発菩提心は、有(う)にあらず無(む)にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず。報地(ほうじ)によりて縁起するにあらず、天上有情はさだめてうべからざるにあらず」 菩提心を起こす(発菩提心)は、抽象的な概念での有るとか無いとかい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十四

岩波文庫132ページ「境発(きょうほつ)にあらず、智発(ちほつ)にあらず、菩提心発(ぼだいしんほつ)なり、発菩提心(ほつぼだいしん)なり」 菩提心は環境によって生まれる、出てくるものではない、頭の中で考えて生まれる、出てくるものではない。環境とか頭で…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十三

岩波文庫131、132ページ「「発菩提心」は、あるいは生死(しょうじ)にしてこれをうることあり、あるいは涅槃(ねはん)にしてこれをうる事あり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十二

岩波文庫131ページ「翻筋斗(はんきんとう)して学道するなり、おのおの随他己(ずいたこ)あり。このとき、壁落(へきらく)これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ」 翻筋斗(とんぼがえり)して仏道を学ぶのであり、それぞれが自分自身あるいは自分以外の森…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十一

岩波文庫131ページ「露柱(ろしゅ)と同参せず、燈籠(とうろう)と交肩(こうけん)せず。かくのごとくなるゆゑに赤脚走(しちきゃそう)して学道するなり、たれか著眼看(じゃげんかん)せん」 戸外に立っている柱と(存在という意味では同じだが)全く同じではないし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十

岩波文庫131ページ「玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり、極微(ごくみ)にきはまる時あり」 (趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師に「磚(かわら)をなげて玉を引く」という言葉がある)が、玉を引く力(貴重なものを手に入…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十九

岩波文庫131ページ「咸通年前につくり、咸通年後にやぶる、拕泥滞水(たでいたいすい)なり、無縄自縛(むじょうじばく)なり」 疎山光仁(そざんこうにん)禅師は、咸通という年号の前には、大宇宙の真理に従って身辺のことができるようになったが、咸通の後には…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十八

岩波文庫131ページ「恁麼なる、すなはち学道なり。学道は恁麼なるがゆゑに牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)これ心なり。さらに三界唯心(さんがいゆいしん)にあらず、法界唯心(ほうかいゆいしん)にあらず、牆壁瓦礫なり」 これまで述べてきたようなものが仏道を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十七

岩波文庫131ページ「鼻祖鼻末(びそびまつ)にあまる、向上向下にあまる。展事あり、七尺八尺なり。投機あり、為自為他なり」 学道は、古い祖嗣であるとか今現在学んでいる者などということを問題にしないものであるし、さらに仏道を学んでいこうあるいはまだ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十六

岩波文庫131ページ「いまの知家非家(ちけひけ)、捨家出家(しゃけしゅっけ)《家、家に非ずと知りて捨家出家す》の学道、それ大小の量にあらず、遠近(おんごん)の量にあらず」 現在の家(世間での生活)は、本当の家ではないと知って家を捨て出家して仏道を学ぶ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十五

岩波文庫130ページ「かくのごとくの心(しん)みづから学道することを慣習(かんじゅう)するを、心学道といふと決定信受(けつじょうしんじゅ)すべし。この信受、それ大小有無(うむ)にあらず」 (心というものは大宇宙そのものであるから)このような心という…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十四

岩波文庫130ページ「山河大地等、これ有無にあらざれば大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変ぜず」 (瞬間瞬間行動している中で心(しん)と山河大地等は一つ、同じであるから)山河大地は有るとか無いとかつべこべ言う…