正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十九

 岩波文庫133ページ「荷葉団々団似鏡、菱角尖々尖似錐≪荷葉団々、団なること鏡に似たり、菱角尖々、尖なること錐に似たり≫。かがみににたりといふとも片々なり、錐(きり)ににたりといふとも片々なり」

 荷(はす)の葉はまん丸で鏡のようだ、菱角(菱の実の角(かど)は尖がっていて錐のようだ。鏡のように丸いのも大宇宙の中の一つの事実であるし、錐のように尖っているのも大宇宙の中の一つの事実である。

 生きていれば瞬間瞬間様々なことが起こる。それは、まん丸のように穏やかで心地よいときもあるし、錐で突き刺されるように厳しく辛いときもある。どちらも事実、現実だ。つべこべ考えたり、言ったりしても別にかまわないけど、まず現実であると体全体で受け止める必要があると思う。

 私は、色々なことが非常に気になる性質で、特に人の言動がものすごく気になる。もし坐禅正法眼蔵がなければおかしくなっていた、本当に死んでいたんじゃないかと思う。

 今でもその性質は変わらない。けれど、それを受け入れることはできるようになったのは事実だ。だからと言って、「心はいつも穏やか」「安心(あんじん)を得た」なんてことはない。辛く感じる、怒りを覚える、気分が落ち込む、それは変わらない。ただ、今この瞬間はそういうものなのだと受け入れているというだけだ。

 事実を受け入れる、現実を体で受け止める。言うは易し行うは難しだ。坐禅していなければとてもできないと私は思っている。

 政治家が宴会したそうな。けしからんと怒られている。この状況で宴会するというのは、よろしくないとは思う。ただ、政治家は支援者が票を入れてくれなきゃ「ただの人」になってしまう。宴会がどういう背景で行われたのか知らないが、支援者側から「やりましょうよ」と言われたら断りづらいだろうなとは思う。業界団体が有力な支援者だったら宴会もやるだろうし、旅行に行けと言わない訳にはいかないだろうと思う。これは現実であって非難ばかりしてたってしょうがないと思ってしまう。業界の人たちが窮地に追い込まれていたら何とかしようとするだろう。そこを何とか上手く凌げるのかどうかが政治家の力量なのだろう。

 私は自分の身の回りのことを何とかして生きていきます。自分自身のことがちゃんとできないのに口先ばかり立派なんて何の役にも立たない。