2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十九

岩波文庫118ページ「傍観者(ぼうかんしゃ)の喚作(かんそ)の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石(しょうせき)の日あるべし」 はたで見ている人が言うところの無も言葉では言い表せない何かである。言葉では言い表せない何かであるから、「石」と呼ばれて…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十八

岩波文庫118ページ「仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼なるべし」 恁麼(いんも)は「何か」「そのようなもの」ということらしい。私なりには、西嶋氏の「言葉では言い表せない何か」ということだと思っている。(西嶋氏の主張をちゃんと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十七

岩波文庫118ページ「趙州いはく、「無」。この道(どう)をきゝて、習学(しゅうがく)すべき方路(ほうろ)あり」 趙州禅師は「無」と言った。この言葉を聞いて、学ぶ方法、方向がある。 仏教で、「無」という言葉がよく出てくる。ここでは、表面的には、犬に仏性…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十六

岩波文庫118ページ「あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人(しょうにん)をみる風流なり」 (この問を趙州従諗禅師にした僧は)相手が趙州禅師で相手が悪く、ひとたまりもなく(水野氏脚注)、残念きわまりないけ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十五

岩波文庫118ページ「かれ(犬)に仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは鉄漢また学道するかと問取するなり」 この問は、犬に仏性が当然りますよねという質問ではない、当然無いですよねと質問しているのでもない。この問いは、十分修…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十四

岩波文庫117、118ページ「趙州(じょうしゅう)真際大師(趙州従諗禅師)にある僧とふ、「狗子還有仏性也無(狗子にまた仏性有や無(なき)や)」。この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。」 趙州従諗禅師は南泉普願禅師の法をついだ人。趙州従諗禅師にある僧…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十三

岩波文庫117ページ「このゆゑにいはく、籮籠(らろう)一枚、時中(じちゅう)十二。依倚不依倚(えいふえい)、如葛藤依樹(にょかっとうえじゅ)。天中及全天(てんちゅうぎゅうぜんてん)、後頭未有語(こうとうみゆうご)」 (全ての物が常に不依倚である)その故に、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十二

岩波文庫117ページ「このゆゑに、半物全物(はんもつぜんもつ)、これ不依倚(ふえい)なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり」 そのようなことであるから、物の半分だろうが全部だろうが、何かに依存せず、自立・自律している(不依倚)のだ。数限…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十一

岩波文庫117ページ「虎を陥れ虎を捋(と)る。異類中に行く。仏性を明見しては一隻眼(いっしゃくげん)を開き、仏性を明見しては一隻眼を失っす。速(すみ)やかに道(い)へ、速やかに道へ。仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり」 ここでは、漢文の原文…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十

岩波文庫116、117ページ「大潙の道(どう)は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得(こうふて)なりやといふ。仰山いはく、「黄檗は陥虎(かんこ)の機あり」。すでに陥虎することあらば、捋虎頭(らっことう)なるべし 」 潙山禅師の言ったことは、その問答のとき…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十九

岩波文庫116ページ「この因縁を挙(こ)して、潙山(いさん)、仰山(きょうざん)にとうていはく、「莫是黄檗搆他南泉不得麼(もしおうばくこうたなんせんふてま、是れ黄檗他(か)の南泉を搆(こう)すること得ざるにあらずや)」。仰山いはく、「不然。須…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十八

岩波文庫116ページ「しるべし、休裏有道(きゅうりうどう)は、笑裏有刀(しょうりゆうとう)のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足(しゅくそくはんそく)なり」 問答をやめ黙っている中に真の「言葉」がある、このことは、笑っている中に真実がありその真…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十七

岩波文庫116ページ「「黄檗便休」。これは休するなり。不肯(ふけん)せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子(ほんしきのっす)しかあらず」 黄檗禅師は黙っていた。というのは文字どおり黙っていた、問答をやめたのである。(以下水野氏の脚注を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十六

岩波文庫115、116ページ「いまいふべし、「若不還銭(にゃくふげんせん)、未著草鞋(みじゃそうあい)(もし銭を還(かえ)さずは、未だ草鞋をはかじ)」。またいふべし、「両三䩫(りょうさんりょう)」。この道得(どうて)なるべし、この宗旨(そうし)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十五

岩波文庫115ページ「草鞋銭なにとしてか管得(かんて)する。行脚(あんぎゃ)の年月にいくばくの草鞋をか踏破(とうは)しきたれるとなり」 (携帯用の水はほうっておくのに)草鞋の代金はどうして問題にするのか。真の仏教・仏道を求めて旅をする年月の間…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十四

岩波文庫115ページ「この道取の意旨(いし)、ひさしく生々(しょうじょう)をつくして参究すべし。漿水銭いかなればしばらく不管なる、留心勤学(りゅうしんきんがく)すべし」 この「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還」が何を意味するのか、教えているのか、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十三

岩波文庫115ページ「南泉いはく、「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還(しょうすいせんしゃち、しょうあいせんきょうしもじんげん)」いはゆるは、「こんづのあたひははしばらくおく、草鞋(わらじ)のあたひはたれをかしてかかへさしめん」となり」 ここのとこ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十二

前回にちょっと付け加えます。「一頭水牯牛出来道吽吽」水辺で飼われている一頭の牛がモウモウと鳴く。当時の中国の農村ありふれた光景なのだろう。 今は派手に人目に立つことが注目され、持て囃されているけれど、大宇宙の真理は、ごく普通のありふれたこと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十一

岩波文庫115ページ「長老見処たとひ長老なりも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには「不敢」なるべし。一頭水牯牛出来道吽吽(いちょうすいくにゅうしゅつらいどううんうん)なるべし」 長老(仏道に優れた人)の意見・考えが長老にふさわしいと言え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十

岩波文庫114、115ページ「しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得(どうて)はこの道取なること、はかるべきにあらず」 そういうことであるから、不敢(どういたしまして)という言葉は文字通りの不敢ではない。このように「不敢」と言った内容を推し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十九

岩波文庫114、115ページ「黄檗いはく、「不敢(ふかん)」。この言(ごん)は、宋土に、おのれにある能を問取せらるゝには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず」 黄檗は「どういたしまして(挨拶語)」と答えた。こ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十八

岩波文庫114ページ「長老見処麼と道取(どうしゅ)すとも、自己なるべしと回頭(ういとう)すべからず。自己に的当(てきとう)なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々(ろういうい)なるがゆゑに」 長老(仏道に優れ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十七

岩波文庫114ページ「「莫便是長老見処麼(もべんしちょうろうけんじょま)」といふは、「これを見処とはいふまじや」といふがごとし。」 莫便是長老見処麼、便ち(すなわち)是れ長老の見処なることなきや。これ(十二時中不依倚一物)とは長老(仏道に優れ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十六

岩波文庫114ページ「たとひ此土(しど)なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし」 仮にこの世界にいるとしても、あるいは別の世界にいるとしても、みな、自分の外側の基準に寄りかかって、依存している存在ではない…