正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十八

 岩波文庫116ページ「しるべし、休裏有道(きゅうりうどう)は、笑裏有刀(しょうりゆうとう)のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足(しゅくそくはんそく)なり」
 問答をやめ黙っている中に真の「言葉」がある、このことは、笑っている中に真実がありその真実は人を斬る力があるのと同じである。このような状態は、仏性が明らかに現れていて、朝の粥、昼の食事で満ち足りている状態である。
 私の経験では、自信が無い人間ほどわーわーたくさん言い立てる。気が利いたような表現をしたりするけど内容はない。
 本当に事実を踏まえ、合理的にものを考えている人は、そのことだけ言えばいいので、たくさんしゃべる必要はない。また、そういう人は穏やかに淡々としゃべればよい。内容があるから、強い言葉を使ったり、大きな声や大袈裟な身振り手振りはいらない。真実はそれで相手に突き刺さるように伝わる。
 だけど、毎回書くようだけど、今は皆さんたくさんしゃべりますなあ。政治家もカッコいい言葉を強い調子でおっかない顔して言ってるように見えるけど、内容はあるのかな?あるんでしょうね、きっと。
 仏性が現れることと食事で満ち足りていることが並べられている。仏教は精神世界だけを扱っているのではない。心身(精神と肉体)、行動を問題にしている。だから、仏性が現れることと食事をきちんと取ることは同列なのだと考えている。
 道元禅師も食事を大事になさっていて「赴粥飯法(ふしゅくはんほう)」「典座教訓(てんぞきょうくん)」という本を残されている。前者は食事の仕方、後者は典座という寺で料理を担当する役目の僧の心得を書かれたもの。
 正法眼蔵哲学書ではない。人間が大宇宙の真理に従って生きて行くための仏教を布教するための著作だと思っている。